アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

隙間理論とヴィパッサナー-2

2024-07-06 03:37:20 | 覚醒のアーキテクチャー

◎出入りする息だけが世界となる

 

【呼吸のすき間を見守る】の続き。

ここでは、実際のやり方が述べられる。

入ってくる息を鼻孔から先(の肺?)まで、息とともに息と同時に意識が一緒になって、急がず遅れず、息とともに内に入り、息とともに外に出る。

そうすると、出入りする息だけが世界であり、自分の意識の全領域になる。突如として、息をしていないすき間を感じる。

 

ところが、実際は最初は息と意識を同時に進めることはできないので、まずは息の通路を感じるようにする。慣れてきたら息を感じることができる。だがこのヴィパッサナーは、前世でさんざん訓練を積んだ釈迦ですら6年、マハーヴィーラですら12年かかったので、およそ簡単ではない。

ところで、最終的に隙間に至る冥想ならば、隙間の方を強く意識すれば早いのではないかと誰でも思うが、OSHOバグワンは、釈迦はそのやり方では『隙間を意識すること』自体が障害になると知っていたという。隙間に到達しようという願望自体が障害になる由(新瞑想法入門P113-114参照)。また引用文のヴィパッサナーのやり方は、前半だけであり、釈迦は、後半を明かしていないことも承知しておくべきだろう。

 

隙間側の冥想法の代表格は、只管打坐。だがそれは隙間を意識するという方法ではない。ダンテス・ダイジは、ヴィパッサナーを勧めず、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガを推した。不眠になるようなこともあり、粗雑なバイブレーションの生活環境に生きる現代人には、ヴィパッサナーは、釈迦の時代よりさらに困難になっているのかもしれない。

 

『試してごらん。そうすれば、あなたはすぐに核心をつかむだろう。そして、体得できる。それは既にそこにある。自分、または自分の基本的な構造に付け足すようなものは何ひとつない。一定の〈気づき〉以外はすべて、既にそこにあるのだ。それではどうすればよいのか。第一に、入ってくる息に気づくことだ。 見守りなさい。なにもかも忘れて、ひたすら入ってくる息―――その通路そのもの―――を見守りなさい。息が鼻孔に触れるとき、その息を鼻孔で感じる。それから、息が入る。充分に意識して息とともに動くのだ。息とともに下へ、下へ、下へと降りてゆく。そのとき、息を見失ってはならない。先へ行き過ぎたり、後に遅れたりしないように。ただ一緒に進むのだ。いいかね。先へ進み過ぎてもいけないし、影のように後についてもいけない。息と同時に進むのだ。

 

息と意識がひとつにならなければならない。息が入れば、自分も入る。そうしてはじめて、二つの息の間にあるポイントがつかめるだろう。それは簡単なことではない。

 

息とともに内に入り、息とともに外に出る。入って、出て、入って、出て・・・・・。仏陀は特にこの瞑想を用いようとしたため、これは仏教の瞑想法となった。仏教用語で、これは安般守意(アナパナサティー―――ヴィパサナの一種)と呼ばれている。仏陀の悟りはこの技法ひとつに基づいていた。

 

呼吸への〈意識〉、呼吸への〈気づき〉を実修していれば、ある日突然、知らないうちにその狭間にやってくる。気づきが鋭く、深く、強烈になるにつれ、あなたの気づきが括弧でくくられるにつれて、全世界がその括弧からはずされてしまう。出入りする息だけが世界であり、自分の意識の全領域だ。突如として、あなたは息をしていないすき間を感じる。

細心の注意を払って息とともに動いていれば、息のないときに気づかぬわけがない。不意に、息がないことに気づく。息の出入りのない瞬間が感じられる。呼吸は完全に停止している。その停止のなかに 「恩恵」がある。』

(新瞑想法入門/OSHO/市民出版社P166-167から引用)

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