アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

臨死体験と感受性

2022-11-26 06:42:38 | 究極というものの可能性neo
◎6%の人は何が起こったかを感じ取る

現代科学では、脳の機能が停止すれば、記憶も失われるとする。以下の文では、人が臨死に至るまでについては記憶がないが、脳機能が停止し臨死になってからの記憶があるのは奇妙だとする。

これぞ、『起こるには起こったが、「何が起きたかを知る」のと単に「起こった」のは別である』ということである。

敬虔なキリスト教の信者が日夜イエスの再臨を願っている。ある日その信者が眠り込んでいる時に、イエスがそのベッドのわきに再臨したが、彼は気がつかなかった。そういうことはあるだろう。キリストの再臨は起きたが、何が起こったかを知られることはなかった。でもって世界中でこんな絶好のチャンスを見逃すのは毎晩起きているに違いない。

こんなチャンスをふいにするのは、感受性の差が原因である。

人間はそのままほうっておけば、見えるものしか見ることができない。また見えるものしか見ようとしない。形に現れたものしか見ようとしない。形にあらわれたものだけが見える。自然、環境、風土、財産、名誉、地位、権力、それらは形だが、その形は万人に見える。しかしその形の背後に神を感得するかどうかが感受性の差である。


感受性の開発とは、霊感を開発しようということでなく、弱いもの弱い立場のものに対する思いやりをもっと持つこと。一般に世間の目は厳しいものだが、「世間の目」そのものを慈愛に満ちたものに変えて、やさしいものに変えていかねばならない。よりやさしい「世間の目」となることが、新時代のきっかけにあると思う。

そうした感受性の開発に役に立つのが冥想である。


『通常、重症患者は急性の錯乱状態に陥っていて、思考は混乱しており、その間の記憶は失われる。
これは、なんら不思議なことではない。脳の機能を支える栄養やホルモンなどの重要な物質のデリケートな均衡が破綻しているときに、脳が正しく機能できるわけがないからだ。

われわれの研究でも、心停止状態に陥った患者の大部分が当時の記憶を完全に喪失していた。しかし、六パーセントから一〇パーセントの患者は意識があり、秩序立った思考が可能であったと主張している。つまり、臨死体験である。

彼らは、心停止状態に陥る前後の記憶は失っていたが、臨死体験については非常によく覚えていた。信頼できる筋からも、心停止状態で蘇生術を受けていたときの出来事を詳細に記憶している患者がいたという証言が得られた。

心停止時に思考ができるなら、脳の電気的活動が外部から測定できないレベルにまで落ち込んでいるときにも意識があることになる。こんなことがあるのだろうか?

心停止時に思考ができるなら、脳の電気的活動が外部から測定できないレベルにまで落ち込んでいるときにも意識があることになる。こんなことがあるのだろうか?

また、心停止時の記憶があるというのも不思議である。頭部外傷や酸素濃度の極端な低下などにより脳が重大な損傷を受けたときには、その前後の記憶が失われるのが普通である。実際、記憶が失われる期間の長さが、脳損傷の程度の指標になるほどなのである。

事故後の臨死体験について私に手紙をくれた男性も、「・・・・私自身は、病院にいたときの自分の容態や周囲の出来事について、まったく記憶がないのです・・・・・私が覚えているのは、ある経験だけです。私はそれを鮮明に記憶していますが、言葉にするのはとても難しいのです・・・・・・」と書いていた。彼らが死に瀕していたときの記憶がほとんどなく、臨死体験のことだけ鮮明に覚えているというのは奇妙である。』
(科学は臨死体験をどこまで説明できるか/サム・バーニア/三交社P128-129から引用)
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