◎「縁」
マインド・コントロールも冥想修行も無意識を操作し、時にトランスに導入していくという点では、似たところは大いにある。両者の相違は、マインド・コントロールは、だますという「目的を持った」心理操作、無意識操作であるのに対し、冥想は「目的を持たない」心理操作、無意識操作であるということ。
だが、広義のマインド・コントロールは、政府、企業が広告宣伝、コマーシャル、SNSなどを通じてテレビ、ビデオゲーム、スマホなどを通じて行っている他、ネットワークビジネス、カルト宗教、カルトじゃない宗教、怪しげなヨーガ団体、まともなヨーガ団体が行っている。要するに手法としてのマインド・コントロールは本来それ自体白黒の色はついていないものだ。
また、リラックス冥想や五体投地、マントラ念唱など、カルト宗教は宗教であるがゆえに冥想手法すらマインド・コントロール手段として用いる。だから冥想手法だからといってそれ自体聖なる手法だと主張することもできない。
その相違は指導者が悟っているかどうかというところに行き着く。手法そのものに善悪がついていなければ、指導者、グル、マスター、師が本物であることだけが頼りとなる。
しかし残念なことに、人は上座にいるその人が悟っているかどうかを見分けることができない。なんとなれば、自分が悟っていない限り、悟りの何たるかはわからないし、ましてその人物が覚醒した人物かどうかはわからない。
それでは、人はどうやって悟りに行き着くかといえば、「縁」という不可思議なものに行き着く。
こうした堂々巡りの状況を踏まえて、釈迦は縁なき衆生は度し難いと言ったわけだ。