◎冥想がなければ始まらない
梅原猛によれば、近代日本には、二回の神殺しがあったという。一回目は、明治維新の時の廃仏毀釈である。廃仏毀釈は仏を否定し、神をほぼ天皇とアマテラスオオミカミなどの天皇のご祖先に限ったが、現人神であった天皇も戦後人間となり、神であることをやめ、共産主義国を除けば(共産主義国では大体宗教は阿片であるとして禁止)、日本には、仏も神もいない、世にも珍しい国となった。
二度目は、修験道の禁止である。廃仏毀釈とほぼ同時に、修験道が禁止されことにより、日本各地の土着の神々と仏教を融和させてきた修験者が大量に失職することで、神仏習合を体現した宗教者を失った。
この結果神道しか残らなかったが、残った神道を天皇中心に再編成した。
このように神も仏をも失った国は、無宗教、無道徳の戦後を歩んだというのが、梅原猛の主張である。
歴史的な経緯はあるものの、政治などの社会的な権威からの押しつけの信仰がなくなったのは、日本にとっては、真の意味で自由な信仰の芽生える素地があると前向きに考えることもできる。つまりもっけの幸いというべきものなのである。
そのホワイト・キャンバスに、本当に納得できるものを描くのは、おそらく既存の組織宗教ではなく、そうした権威から離れた、ひとりひとりの冥想習慣の中から自然に出てくるところのものしかないだろう。
ところが、日本社会には全然冥想の習慣などないので、何も出てきていない。