◎平時でも分断孤立した生活と意識
(2017-09-17)
大規模災害の後は絆がスローガンになる。それは、大規模災害でライフラインが破壊されると、生活は分断、孤立しがちになるもので、生存を維持するためには、食料、水、情報などの絆が要るということ。
ところが、個々人の生活の分断は、ライフラインが整った日常にあっても既に常態化している。個人主義的生活とは、個々人が分離した生活スペースで暮らし、日常意識も他人と分離し、独立していることであり、常に孤独感、孤立の影が差す。
平均主義、平等主義、不公平なしを社会秩序の根底に据えている日本社会は、残念ながらねたみそねみが心情の根幹にある。
「他人よりちょっと得をする」というのは、大いにやる気スイッチを刺激するが、これは、ねたみそねみを身上とする日本民族にとっては、諍(いさか)いの種である。
だから、人は「ちょっと足りない、ちょっと不足気味」で満足しなければ、際限のない他人との分捕り合戦の罠に落ちる。
核家族化と個人主義的ライフ・スタイルで、各個人は孤立し、こうした「ちょっと得」の罠にかかれば、その人たちは、最終的に親子など家族同士でも争うことになることは、古代の歴史や経験、予言などでいくらでも予見されている。
古代ギリシアのオウィディウスの変身物語には、金の時代、銀の時代、銅の時代と進み最後は鉄の時代になる。
鉄の時代には、こっそりあるいは合法的に他人の物を奪うのが基本となり、主人は客の、婿は舅の安全を守らず、兄弟愛も稀であり、夫は妻の、妻は夫の死を画策し、息子も父の死期を探るなどと、現代の油断も隙もない時代が幻視されている。
こうした反作用のせいか「すべてはつながっている」「ノンデュアリティ」などと言い立てる人もいるが、「すべてはつながっている」観想や「ノンデュアリティ」観想をすれば、いつかわかることもあるのかもしれないが、孤独で不安でみじめで情けない自分から本当に解放されるのは、それとは全く別の事態かもしれないのだ。