◎他人のプライバシーへの異常な関心と巨大監視システム
かつて職場に二人の還暦越えの男性がいて、その両人の話題は、いつも組織内の人物のプライベートな境遇のことであった。その話題は、不幸であったり気の毒であったりする内容であれば、興趣が盛り上がっている風であった。たまにその様子を見て、私はいつもどうしてそこまで他人の私生活に興味を持たねばならないのかと、訝しんでいた。
それは要するに他人の生活ぶりを妬み、そねんでいたのであり、自分が不幸であれば、他人が同様に不幸であることを以って自分を慰める類のことであった。
他人の不幸は蜜の味。
そうした蔭には、同等の生活環境であれば、できれば、その中で少しでも上回りたいという願望が蠢いているのだが、その際限のない堂々巡りを繰り返しても何十年倦むことのない心的エネルギーこそ恐るべきものだと思った。
これが、他人を監視したいというものに発展していく。世の中には異常に他人を監視したいとする願望を持つ者がいる。大はGoogleやfacebookやLineや、さる共産主義国家や独裁国家であり、自分が権力を持った証の一つが他人のプライバシーを握れることとでも考えてでもいないと、このように大規模な監視システムは成立しないのではないだろうか。
その結果が、大規模な強制収容所で、中国と北朝鮮では毎度話題になる。他の自由主義国家でも、どんどん監視の程度が進み、やがて国家ごと巨大な牢獄と化すことを予言されてもいる。
その元をたどれば、他人より少しでも良い目をみたいとか上回りたいという競争意識である。近代社会では、それにより自己実現ができると教え込まされて来てもいる。これぞ社会まるごと自我を膨張させるシステムであり、そのシステムは、ねたみそねみに寛容であって、人間相互の小競り合いを増殖拡大させていき、世界戦争にたどり着くまで終わらないのだろうと思う。
殺伐、乾燥したその世界の風よ。