◎ジェイド・タブレット-外典-03-02
王重陽は、道教中興の祖の一人で、全真教の開祖で、12世紀の人物。陝西省咸陽の出身。
最初は、高級官僚になろうとして科挙を受けたが不合格となり、28歳のころすべり止めの武官試験に合格した。しかし、咸陽郊外の甘河鎮という辺境の酒税監(酒税徴収の監督官)という閑職にしかつけなかったので、失意のうちに生活が荒れ、親戚や郷里の人々は、この様子を嫌って、「王害風」とあだ名したといわれる。47歳になっても小役人のままであった。
48歳の時、陝西省甘河鎮の酒楼で、いつものように酒を食らっていると、髪の毛を伸ばしほうだいにした異様な顔つきの人物(異人)が現れ、しばらく王重陽の顔を見つめたすえに「あなたこそ教え甲斐がある」と言って、内丹の一道修真口訣を授けて去った。
翌年の中秋の夜、陝西省醴泉県の通りで異人を見かけ、あわてて近寄って礼拝した。二人は酒楼に入り、異人はそこで秘文を五つ取り出し、暗記したら焼却するようにと指図して去った。
後にこの異人は、中国道教のスーパースター呂洞賓とされる。この後王重陽は妻子を捨てて修行生活に入る。
王重陽は、終南山の麓の南時村に深さ4メートルの穴を掘り、それを活死人墓と名付け、王害風霊位という墓誌を掲げ、その中で冥想修行した。
2年半で金丹を得た(悟った)とされるが、常に瓢箪をぶら下げ、歌を歌いながら酒を飲み、農村や野原を乞食をして歩いた。
1163年彼は、活死人墓を埋め、劉蒋村近郊で布教を開始したがうまくいかず、1167年自宅に放火した。
驚いて火を消しに来た村人に彼が言うには、「私は東方に縁があり、そちらに赴く。三年後にこの家を建て直す人が出るだろう」と。彼は山東省に行き全真教を起こした。孫不二は女性の高弟。
王重陽も真人である。呂洞賓も王重陽も科挙の失敗者であるのは偶然ではあるまい。
深い穴を掘って穴の底で修行するのは、丹波哲郎の本に出てくる四国のアストラル・トリッパーと同じだが、王重陽は社会的使命を帯びていたのが異なる。今道教でまともに残っているのはほぼ全真教だけのようだし。
彼には4人の高弟がいたが、いずれも一日一食でそれもうどん一杯程度の托鉢で修行したようだ。托鉢してもその程度がせいぜいだったのだろう。この時代も真剣な修行者であればあるほど、餓死のハイリスクと戦いながら、修行せざるを得なかったわけだ。
また呂洞賓は肉体でなくアストラルで法を伝授。