◎どちらでもOK
(2006-11-26)
日本には、もともと八百万の神々がおはしまし、その上仏教伝来後は仏教系の神々も輸入されてきたので、神々や諸仏のいることは、とてもにぎやかなことであった。
法然や親鸞が出てきて、阿弥陀仏だけ拝みましょうという運動を始めたのは、非常に革命的なことであったに相違ない。何しろ天照大神、素盞鳴命から大日如来など数しれぬ大物神祇、高級神霊をさしおいて、阿弥陀仏だけ拝みましょうという運動だったからだ。実際に法然や親鸞の当時は阿弥陀仏以外は拝まなかったようだ。
そうすると他の神祇、高級神霊を拝まないのは、拝んでくれない尊格からの天罰仏罰があるのではないかという不安がかき立てられ、親鸞直系の存覚の頃になると、「阿弥陀仏は、すべての神祇の本地つまり、あらゆる仏菩薩の総元締めであり、かつ天津神、国津神、八百万神の総元締めであるから、阿弥陀仏以外を拝むことは、阿弥陀仏を拝むことである」という理論づけに変わり、他の神仏を拝むことも容認して行った。
こうした流れからすると、日蓮の法華経に帰依しましょうという運動は、更に一歩大胆に踏み出したものに思われる。日蓮は、神仏ではなく、法華経への帰依を打ち出したからである。もっとも日蓮の大曼陀羅には、釈迦、多宝仏の他、天照大神や八幡大神も出てくるので、日蓮のイメージの中には諸神祇を排斥するつもりはなく、取り込んでいたつもりだったのだろう。日蓮自身も、虚空蔵菩薩に願をかけたり、諸神霊の加護に祈念している
なお、このブログでは、南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経もマントラ禅の分類にしており、マントラになりきることによるマントラ・シッディによる大慈大悲・愛の直観が本質と見ているので、神でも仏でもどちらでもOKです。