◎謙虚と信頼
西洋錬金術書や密教の秘密集会文献などは、故意に門外漢にはわからないように書いてある。中には、わざと間違いを書いて正統な体験をした者だけが正しい方向がどちらかわかる仕掛けをしているものまである。
そうした代表的な例は、中国道教の錬丹家魏伯陽が、自分と高弟達全員に致死量の毒薬を飲むように命じた事例である。これは、人民寺院のような集団自殺したカルトの話ではなく、真正の聖者魏伯陽が高弟達の成熟度を分別するために行ったテストであった。
マルコ福音書4-9~12では、「聞く耳のある者は聞くがよい」とイエスが唱え、12使徒がその真意を問うた。
するとイエスが言うには、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。
それは『彼らは見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、悟らず、
悔い改めてゆるされることがない』ためである」、と。
これは、例の『起こることは起きたが、何が起きたのかわからなかった』というレベルの話の伏線でもあるが、むしろ平易な言葉で高弟向けに話した言葉を高弟以外の人にそのまま話しても誤解や反感や敵意を受けることになることを言っている。果たしてイエスは十字架上で磔刑で死んだ。
12使徒は、イエス磔刑時に弟子であることをとぼけたりして、いわゆる神人合一体験はなかったが、ここでイエスは、12使徒は奥義を伝授されているとしているので、見神は経ていたのだろうと思う。
12使徒には、知識階級はいなかった。漁師、大工、徴税吏など、そしてイエスの恋人は娼婦。知識があって宗教的哲学的思弁の訓練を受けていれば、イエスの真意はある程度わかるものだ。それに対して低学歴の人たちが謎めいたイエスの言葉を理解できたのは、『謙虚さと信頼』があったからである。『謙虚さと信頼』は、浄土系の宗教が広まった原因でもある。弥陀の本願に帰依する『謙虚さと信頼』。だからイエスは愛を説いたとも言われる。
現代人は知的に発達したから、神の国に入るのは近いなどと言うが、最後は正師への『謙虚さと信頼』であり、神様への『謙虚さと信頼』であり、ここは理屈で説明しづらいところ。だから現代人には、『見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず』などという人が多い。
現代人にはそれが欠けているなどとも言われることがある。