アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

啓蟄のバランスと歩行改善と転倒防止エクササイズ

2024-03-07 03:35:35 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎身体バランス練習、シニア向け

 

「60代以上のバランスと歩行改善のベスト10練習」(SENIORS OVER 60: BEST 10 EXERCISES TO IMPROVE BALANCE AND WALKING: COMPLETE COURSE/Proprioceptive Rehab by Dr. Doug Weiss DPT)

を一日2回2か月やりましたが、片足立ち時間に改善は見られず、むしろ足腰膝の筋力が落ちてしまったので、やめました。

なお「60代以上のバランスと歩行改善のベスト10練習」には、かかと-つま先歩き、またぎ越しでの重心移動、後ろ歩きによる前傾歩行防止など見るべきテクニックはあります。

 

代わりにOlivia Lawsonの室内散歩に変更しました。これは、1回20分を一日3回やるようにしています。

これに加え、一日1回の【中野ジェームズ修一】の10分のスクワット&フロントランジをやっています。

 

Olivia Lawsonの室内散歩は、竹脇まりなのより、より力強く、ダイナミックです。30分か40分ものをやるようにしています。

1メニュー40秒ですが、きついので20秒弱だけ画面どおりやり、残り時間は足踏みが多いです。

以下は一例です。

40 MIN METABOLIC WALKING EXERCISES FOR WEIGHT LOSS- No Jumping

https://www.youtube.com/watch?v=61H7HVvS5_I&list=PLW6oseVSNn-dPjGj7LTWGY8fBq9GAwlyE&index=2

 

Olivia Lawsonの室内散歩は、始めてまもないですが、膝回り、もも裏、腕回りなどがしっかりしてきて、効果が顕著です。

まず転倒しないことに注意し、やると必ず痛めるポーズはやらないように、それとやり過ぎに注意して進めています。

うすら貧血はだいぶ改善しましたが、下半身の筋肉の弱りは、例の「60代以上のバランスと歩行改善のベスト10練習」の負荷不足によってむしろ進行してしまった印象があります。

Olivia Lawsonの室内散歩は、結構激しいので、シニア向けリハビリではあまりやらせないようなレベルのものだと思いますが、加減をみながらこのようなものにチャレンジすることも必要だと思いました。

老化具合は人によって千差万別、自分に合ったものは自分で試していくしかないのでしょう。

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死んだ犬の霊を猫に移す

2024-03-06 15:43:16 | 浅い霊感から神人合一まで

◎出口王仁三郎と野良猫

 

出口王仁三郎が、野良猫を年季を定めて飼ってやる話。これは、昔は、猫が普通にネズミを捕って野良猫として自活できていた頃のこと。猫は去勢しなければ1年で37匹に増えるそうだから、明治大正では、野良猫としてリリースすることに何の抵抗もなかったのだろう。

なおこの話には、死んだ犬の霊を猫に移したくだりが出てくる。結果としては不調に終わっているのだが、リードビーターらがクリシュナムルティでも同じようなことをしようとしたのは有名な話。

『猫

 

猫の毛を逆に撫なでると火が出るのは、強い電気が起おこつてゐるからであつて、猫ほど電気に感じ易い獣はない。天候をよく感知すると云はれてゐるのもこれが為である。それがため又また霊的には甚だ怜悧であり且つ執拗である。昔から犬や馬の化けて出た話は滅多に聞かぬが、猫の化けて仇をした話は屡々しばしば聞く所である。最初に飼ふ時に『お前は一年間だけ飼つてやるから』といひ聞かしておいて、もし一年経つて飼主が前に云つたままで忘れて了つてゐると、猫の方はチヤンと覚えてゐて、知らぬ間まにどこかへ行つて了ふものである。

だから一年経つた頃に『これからもう一年だけ飼つてやる』と年期を延ばして云ひ聞かしておくのである。斯うして猫に年期を切ると云ふのは、もし飼ひつ放ぱなしにしておくと、中には年月が経つと共に一種の霊力を具へて人を驚かしたりする事がままあるからであらう。猫が死人を踊らした実例は私も知つてゐる。

犬の霊が猫に憑(うつ)つた面白い実例があるから話さう。綾部のある信者の家に一匹の犬を飼つて非常に可愛がってゐた。この犬が病気で死ぬる時、主人が『お前の肉体は死んでも、魂は残って飼猫に憑(かか)れ』と云ひ聞かした。すると間もなくこの犬の死と共に飼猫の生活状態は俄然変化して来て、食物から挙動から一切が犬と同じやうになつて了(しま)つた。そして家族の人等が他出する時などには、何時も前の犬のやうに先に立つて送り迎へをするのであつた。私が其の家から帰る時などには必ず送つて来た。併(しか)し何分本来肉体は猫なのであるから、食物の関係などから身体の工合を損じ間もなく斃れてしまつた。

所が又不思議なことには、その猫が死ぬる時に『この肉体が亡びても、この仔に憑(かか)つて居れ』と云ひつけた所、その猫の死と共に今度はその仔猫が急に犬の真似をやりだしたのであつた。がこれも亦(また)不幸短命で終つた。精霊が二つであるから勢ひ肉体の統一、調節がとれ難く、無理が多くなるので短命に終り勝ちなのである。世間一般の千里眼とか天眼通とかの出来る霊術家が大抵短命で終るのも、実は自己以外の他の精霊の助けを借りてゐるが為で、前の猫の例と同じ理由によるのである。

兔に角かく家畜でも草木でも元来が人に属してゐるものであつて、主人の身代りに飼犬や飼猫が死んだり、又主人の死ぬる前に愛木が突然枯れたりなどするのをみても、如何に人と是等とが密接な関係にあるかが分かる。家畜や庭木が元気なのは、その家の盛運を物語つてゐるものである。

又人の言霊が如何に痛切に是等のものに作用するかといふ事も、前の猫に対して年期を切る場合などで分わかる。果樹などに対しても『来年沢山実みをつけぬとブチ切つて了ふぞ』と威(おど)すと、その翌年は思つたよりは沢山になるものだと云ふことである。』

(出口王仁三郎全集第五巻P561-563から引用)

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白猫のしろちゃんはかなくも死す

2024-03-06 03:19:35 | 浅い霊感から神人合一まで

◎なきがらも残さず去りぬ

 

2月に零度近い朝が続いた二晩目の夜、前夜からずっと寝床を動けなかった猫のしろちゃんは、あっけなくも去りました。

 

しろちゃんは、地域猫で、純白の白猫で目が青いです。もともと7,8年前に白猫の母から生まれた三兄弟の一匹で、他の兄弟は、茶白とキジトラ。ごみ集積場の前で母子が餌を探しているのが朝の風物詩でした。

母猫も兄弟猫もとっくにいなくなりました。

 

4年ほど前に、ベランダに猫の寝床用に置いたダンボール箱にしろちゃんが疥癬を罹患して黒まだらの汚い姿で動けなくなっていたのが、本格的なお世話の始まり。

洗濯ネットに収容し、そのまま動物病院に運び、疥癬の治療と、寄生虫駆除薬や三種混合ワクチンを打ってもらいました。

疥癬の治療は、3か月くらいかかったのだが、その間去勢も行い、3か月後には純白青目のイケメン猫として元気に野良に戻って行きました。

しろちゃんはわりに凶暴な猫で、最後までだっこはできませんでした。最初の頃は餌を上げようとするとその手にパンチが来ましたが、最近は餌を上げようとするとちょっと下がるようになってくれました。

 

疥癬から回復して再リリース後、地べたに寝ていると白が灰色になるので、見かねて、外に木製猫ハウスを置いて、中の床に断熱スチロール、上にクッション、タオルを重ねて入れたら、2週間くらいで猫ハウスを定宿にしてくれるようになりました。晴れて白猫になったのです。えさは三食。

冬は、零下5度くらいになる日があり、4年ほど前からシリコンみたいなゲル状の湯たんぽ(湯たロン:(株)アイスジャパン;アマゾンで買えます。)をタオルの下に入れてあげるようにしました。ユタロンは、電子レンジで600W4分で42度になり、暖かさは外気温0度ならさめて外気温になるまで6、7時間。また外気温10度なら外気温になるまで8時間程度はもつ。湯たロンは電気火災の心配がなく、野良猫向け保温用具として優れモノです。

耐久性は、200回程度使用と箱には書いてありますが、1回に湯たロン2個加熱、8時間毎に1日3回交換、4個体制で回して、一日に1.5回加熱、一冬で100日として、一冬150回加熱ですが、3冬くらいもつ印象です。湯たロンのビニール袋が破けて中味が出てきて1個オシャカになったのが、3年目くらいでした。

猫は寒がりで、人間より体温が高いです。漆黒の深夜、湯たロン交換する際、冷えた湯たロンはしろちゃんのお腹の形にいつも凹んでいます。

湯たロンがあっても家の中で暮らす人間や家猫の方がはるかにぬくぬくと暮らしていることを思い、厳寒にユタンポ(湯たロン)だけで堪える野良猫の苛酷さを改めて考えさせられるものでした。

しろちゃんは、やもりを捕まえるのも下手でハンター(ハンター猫ならジャンプ一番真上から捕まえるが、しろちゃんは横パンチであって捕まえられない。)ではなく、人から餌をもらえないとやっていけない悲しい宿命を持った猫なのです。その癖、しろちゃんは喧嘩っ早く、武闘派でした。

 

最期の夜中に、私は床の中で、しろちゃんが鳴く声を何回か聞いたのですが、それが最後になりました。翌朝猫小屋に、しろちゃんの姿はありませんでした。

享年は、7,8歳。野良猫の寿命は3,4年というが、長い方ではある。それにしても猫小屋で寝込んで動けなくなってから3日くらいで亡くなるものなのか。人間も水と食料がないと3日で死ぬが、猫も一緒か。

 

出口王仁三郎の随筆に野良猫を〇年だけ飼ってやると言い含めて飼ってやるシーンがあるが、その年季が明けたら猫は野良に戻る。私はそれを猫に対して残酷なしうちだと思ったのだが、今皮肉なことに自分も瀕死の野良猫に対して何もできなかったという無力感に打ちひしがれている。もっとお金と情熱があれば、さらに数年の延命はできたかもしれない。だが、自分の力ですべての野良猫を幸福にすることなどできやしないのだ。

 

わたしは、しろちゃんのなきがらを確認してはいないが、猫は屍解する(死体を残さず虚空に消える)ということを信じている。出口王仁三郎も猫の屍解を認めているのだ。

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ヘルメース讃歌に見るヘルメース

2024-03-05 03:53:11 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-08-07

◎地獄も越えて-07

◎天国と地獄での同伴者でもあり

 

ヘルメースはゼウスとマイアの子。ヘルメースは、生まれた直後にアポローンの牛50頭を盗み、ゼウスの愛人イーオーの見張りの百目のアルゴスを殺し、アプロディーテーの黄金のサンダルを盗んだことで、殺しもやるわ(インドのクリシュナも同様)、盗賊の頭でもあるという芳しからぬ名声をも持つ。

ヘルメースは、ヘルメース讃歌の中で、「夢を司る者」と呼ばれ「ハーデースの館の正式な使者」(ハーデースは死の神)であり、

『これをもってわが讃歌も終わる

ポイボス・アポローンはこのようにマイアの息子を心寛き愛で愛し、

クロノスの子はヘルメースに恩寵を垂れ給うた。

あらゆる人間とまた神々と、この神は交わりを持つのだ。

彼が益をもたらすのはまれ、だが漆黒の夜を通して

際限なく彼は人間を欺くのである。』

(迷宮と神話/カール・ケレーニイ/弘文堂P169から引用)

 

東日本大震災の時に改めて思い起こされたのは、神は必ずしも人間の都合の良いように取り計らってくれるものではないということ。

ヘルメースの動きは、死の側も出入り自在、悪の側も出入り自在であり、そのことすらも天意、神意をはずすものではない。だから人間にとって無害とはいえないが、神というもの、世界というもの、現実とはそういうものではないかと気がつかせてくれる、それがヘルメースというトリックスターの役どころなのだと思う。

そこで天国と地獄を超える、神と悪魔の止揚という非二元の本来の立ち位置がここに示される。そこは、もはや人間の立ち位置ではないのだ。

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命知らずだが、永遠の命を求める

2024-03-04 03:50:56 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-08-06

◎地獄も越えて-06

◎興味を持っている人たちは揺るがない

 

昔、悟りが起きる時、呼吸停止、心拍停止が起きると言う話(ダンテス・ダイジによる)を知って、そんなとんでもないことをしなければ悟りは得られないのかと思い、非常に驚いたことを記憶している。

悟りに達する人の割合について、

1.肉体死してもほとんど悟らない。この点で悟りに達する人(ニルヴァーナとの合一、神人合一、身心脱落)の比率は極く少ない。これは、肉体死に際して、悟るための準備ができているかどうかということが必要条件になっているが、その条件をクリアしている人がとても少ないことに由来する。

2.悟りを得た人のうち9割は即座に死する。首尾よく悟っても、その悟りを肉体で味わうこともできない人が9割ということになる。(出典:神秘家の道/OSHO/市民出版社P487)

3.さらに悟りを得た時に生き残った1割のうち、9割が残りの一生を沈黙に留まり、一割だけが起こったことを語り得る。その理由は、一般的には真理は語れないからだとされているが、実は悟りの際の衝撃で大脳が機能しなくなるから。(出典:上掲書P487-488)

なおOSHOバグワンの説では、イエスは、埋葬からの復活後、何十年か生きたが、その間一生沈黙にとどまったという説をとっている。イエスは十字架上で大悟したが、大脳が破壊されて沈黙に止まった方だと言っているのだ。

4.これは余談に近いが、悟りの後に語る能力を温存できた1割の人のさらに1割だけが導師になれるという。導師とは、彼の話を聞くだけで人が変容し、新たな生を与えることのできる人。これは単に教義を教えることのできる教師とは異なる。OSHOバグワンは、そのような導師の例として仏弟子シャーリプッタを挙げている。(出典:上掲書P489-491)

 

さて、冥想修行は悟りに堪える肉体を準備することにあるとも言われる。つまり悟り時の衝撃に堪え得る肉体を作るということでもある。

それはさておき、一生あるいは何生かかけて悟りに堪える肉体を準備できたとする。だが、悟りの瞬間に即死するのであれば、死んだら悟りがどのようなものか、味わったり、見たり、感じたりできないのでは、悟りを目指す意味がわからないと思う人も多いと思う。

OSHOバグワンは、それについて、

『興味がない人たちが興味を持つようにはならないし、また興味を持っている人たちは、どんな真理によっても邪魔されるはずはないからだ。そして実際、その人たちは、そのことを前もって知っておいた方がいいだろう。』(上掲書p488から引用)

真剣味が問題になるのである。

 

イエスの十二弟子のひとりだったペテロは、十字架にかかる直前の最後の晩餐でイエスや他の弟子を前にして、「私だけは決して裏切らない」と啖呵を切るが、イエスから「鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言う」と予言され、大祭司カイファの庭で、三人の人物からあなたはイエスの弟子ではないかと問われたが、その都度しらばっくれた。だがそれはペテロが準備できていなかったからであり、後にペテロは準備ができ十字架にかかって殉教した。ペテロは初代ローマ教皇になった。準備ができるのを待たなくてはならないということはある。

 

道教の魏伯陽は、弟子三人とともに山に入り神丹を作った。神丹を飲ませた犬が即死し、魏伯陽も即死した。弟子の一人は神丹を飲んで即死したが、弟子二人は飲まずに帰宅した。という故事がある。魏伯陽と神丹を飲んだ弟子は、後に蘇生して悟りを開いた。飲まずに帰宅した弟子は準備ができていなかったのだ。

無用の用がわかるということも準備のうち。

 

イエスも釈迦も命知らずだったが、永遠の命を求めて冥想修行したのだ。

 

瞑想は無用の用である。瞑想は何の役にもたたないが、瞑想それ自体があるということはある。それを無用の用と謂う。最近の98%以上の人々の頭は、あまりにも実利志向になっていて、必要性思考になっていて、闇雲に結果を求める。結果ゼロ、あるいはメリットがないことが何か悪いことであるかのような気まずさがそこに漂う。

 

ところが人は死から出て死に帰って行く。死があっての生だが、死は無用の用。また人の命は地球よりも重いが、世界は、君のために存在しているわけでなく、君がいようといまいと何の変りもないというのも厳然たる事実。それが生と死の有用無用。

 

道元が、弟子の質問に答えて、只管打坐は、何も得るところもなく、何も悟ることもないがそれでも坐るのだとしている。無用の用である。

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求道の真剣味

2024-03-03 03:59:52 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-08-05

◎地獄も越えて-05

◎言語を絶する不幸には滑稽が伴う

 

ヨブ記では、神を生きることの真剣味、求道の真剣味が徹底して問われている。

天国も地獄も吹き飛ぶイベントに冷静に真摯に向き合うには、真剣味がいる。

 

ダンテス・ダイジの示した「冥想者の日常的な態度」は以下のようなものであって、それには、真剣さ、人生への取り組みの真剣さの項目はない。

1.素直であること

2.正直であること

3.情熱的であること。

4.リラックスしていること

 

なぜ真剣さという項目がないかについては、これを示した弟子たちは既に真剣さがあるレベルに達していたからであって、殊更にそれを示す必要がなかったからではないかと思う。

 

【真剣さメモ】

1.シュンニャの皮を剥く。何回剥けるかどこまで剥けるかはその真剣味による。

 

2.クンダリーニのエネルギー・コードはその存在次元によって性質を変えるが、そこで順路を辿る意思・慣性は真剣さから来る。

 

3.人生で与えられた生きるエネルギーは人によって、今生で持ってきた分量には多寡がある。精神の成熟はそれに裏打ちされたところがある。

 

4.人は最終段階で、神にもオープンで悪魔にもオープンとなるが、その先の一歩を正しい方向に踏めるかどうかは真剣味による。

 

ダンテス・ダイジの著書「絶対無の戯れ」に現れた真剣味を並べてみる。

『あのどたん場の自己を忘れた果てた

真剣さでありたい』(ダンテス・ダイジ/絶対無の戯れ/窮鼠P23から引用)

 

『今までにおまえは

一瞬でも本気になったことがあるか

ありはしまい

なにしろおまえは神なんだから』

(ダンテス・ダイジ/絶対無の戯れ/おれは神P31から引用)

 

『身の切れるようなざん悔のみが

私に私を忘れさせる』

(ダンテス・ダイジ/絶対無の戯れ/ざん悔P36から引用)

 

『老婆は聖者に

正真正銘の真剣さでたずねた

「どうしたらこの地獄から解放されましょうか?」

聖者は素直に答えた。

地獄へ落ちろ、クソ婆ばあ!

そういうウソツキ!』

(ダンテス・ダイジ/絶対無の戯れ/ざん悔P59から引用)

 

※模範解釈を示すのは、本人の勢いを失わさせる効果があるものだ。(公案解答集など)

 

私の感じでは、真剣さは、最初は見切る力として作用し、中途では「不条理なる現実」を突破する力として作用し、それを通過した後は戯れる力として作用するように思う。

 

聖書のヨブ記は、篤信のヨブがこれでもかこれでもかという不幸に見舞われ続け、それでも神を信じ続けるのかみたいな話。そこに滑稽を見れる真剣さがあるのか。

 

『言語を絶する不幸には滑稽が伴う』と言ったのはダンテス・ダイジである。これは世間的には大いに誤解される言葉だが、考えてみるべきだろう。

 

非正規雇用4割の時代で、貧困に苦しむ世帯は、国民の主流とも言える時代となった。

 

それでも冥想を。

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天国も地獄も吹き飛ぶイベント

2024-03-02 03:42:25 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-08-04

◎地獄も越えて-04

◎隙間イベントが起きると天国的な癒しは通用しない

 

地獄ということでいえば、悪には、不快、苦しい、つらいなどの天国サイドのアンチとなるもの以外に、「そもそも日常と認識している世界全体が足元から揺るがされるもの」の2種類があると考えざるを得ない。だが、「そもそも日常と認識している世界全体が足元から揺るがされるもの」とは、地獄とは考えにくい。

なぜなら「そもそも日常と認識している世界全体が足元から揺るがされるもの」とは、天国も地獄も吹き飛ぶイベントだからである。そして、その入り口が隙間である。

隙間イベントが起きると天国的な癒しは通用しない。だから隙間イベントが起きると、

人は元の人生観のままで生きることに退行するか、発狂するか、自殺するか、大悟覚醒するかに分かれるなどと言われる。

 

また人の頭は、想念、隙間、想念と連続して移動するが、想念の方が非現実・夢であり、隙間の方が現実。

天国と地獄を超えたところとは、結局隙間のことである。

 

一般的には宗教宗派の冥想修行体系によって、隙間への入り方が定まっていると思われているものだ。

そうした宗教的冥想修行によらず、階段から落ちたとか、自転車でころんだとかの偶発的な事件の拍子に、すべてが落ちてしまい隙間を感得することもあるし、禅の悟ったきっかけ集(禅関策進など)に出てくるように、隙間は宗教修行、冥想修行の一部に限定されることなく、日常の何気ない出来事が契機になるなど、無数のパターンがあり得る。

 

つまり悟りは、世間的には宗教団体でその宗派で定められた冥想手法に沿って悟りが発生するものだと思われているが、実は宗教団体に入信しなくても、一般人の日常の中でも続々と発生しているのだということ。

だが、悟った後は生存する可能性が低いということはある。

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聖アントニウスの誘惑

2024-03-01 03:21:22 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-08-03

◎地獄も越えて-03

◎翼で天に昇ろうとする者たち

 

泰西の絵画展に行くとよく出会う聖アントニウスの誘惑。

『聖アントニオスは、自分についてこう語っている。「わたしは、かつて巨人の姿をした悪魔に出会ったことがある。身のほど知らぬ悪魔で、アントニオスよ、見よ、わたしは、神の力と知である。 ほしいものがあれば、なんでもとらせようと大きな口をきいた。わたしは、彼の顔に唾をはきかけ、頑として抵抗し、キリストの御名で武装した。すると、悪魔は、たちまち退散した。」』

(黄金伝説 1 ヤコブス・デ・ウォラギネ/著 人文書院P247から引用)

 

『あるとき、修道士たちは、彼にたましいの運命についてたずねた。その夜、彼は、「起きて、外へ出て、空を見なさい」という声を聞いた。外に出てみると、頭が雲にとどくほど長身の無気味な男が立っていて、翼で天にのぼろうとする者たちを両手をひろげて阻止していた。それでも、ちゃんと天にのぼっていく者もあった。その男の力では、どうしても食いとめることができないのであった。 アントニオスは、大きな歓びの叫びと、それにまじって大きな嘆きの声を聞いた。そして、天にのぼろうとしているのは人間のたましいたちで、悪魔がそれをはばもうとしているのだということを理解した。悪魔は、罪人たちのたましいは払い落とせるが、聖なるたましいには一指もふれることができず、そのために大きな嘆きの声をあげているのであった。』

(上掲書P250から引用)

 

この2話目は、どうして悪魔の立場から見た嘆きの声をことさらに書いているのだろうか。

また人間の使命は当然に天に昇ることであるとしているところには、けれんみがない。文明のバロメータは、その文明において何人天に昇ったか、すなわち何人悟った人を出せるかということ。果たして、悪魔は天に昇る者の邪魔をしていた。

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