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唐儉 字茂約
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父鑒は隋戎州刺史。
儉は規則には従わないが、孝ではあった。父が太原留守の李淵[高祖]と親しかったため、太原に遊び世民[太宗]等と交遊していた。
義寧元年六月
李淵[高祖]が反し、大将軍府記室参軍となった。
渭北道行軍元帥[世民]司馬となった。
長安陥落後、加光祿大夫相國府記室封晉昌郡公。
武德元年六月
內史舎人
尋遷中書侍郎加散騎常侍。
二年十月
抵抗する蒲州城[王行本]に獨孤懷恩とともに攻撃した。
十一月
ついで夏縣人呂崇茂が城をもって反し劉武周についた。敗れて永安王孝基・獨孤懷恩・于筠とともに捕虜となったが懷恩等は脱した。残された儉は懷恩の謀叛を密告し、懷恩は誅された。
三年四月
世民[太宗]が武周將宋金剛を大破し太原を回復すると、儉は府庫・兵甲を守って帰国した。
高祖はそれを賞して舊官に復し并州道安撫大使とし懷恩の財産を与えた。
四年二月
并州総管李仲文が突厥と通じていると誣告し、仲文は誅された。
禮部尚書天策府長史兼檢校黃門侍郎封莒國公
九年十月
食綿州實封六百戶
貞觀元年
遂州都督
三年~四年
遂州都督兼鴻臚卿
四年二月
飢饉で衰弱していた突厥に使いして有利な条件で和議を結ぼうとした。
突厥頡利可汗は情勢が悪いため和議に傾き油断している所を、李靖が急襲して潰滅させた。
頡利は敗走し、儉もなんとか帰り着いた。
衛尉卿
九/十年~十九年
民部尚書。
十一年十月
太宗の狩猟時に「馬上で天下を得ても、馬上で治めることはできません」と諫めた。
十三年三月
民部尚書として薛延陀に使いした。
十七年二月
加光祿大夫
子の善識が豫章公主[太宗六女]駙馬都尉となった。
十九年
儉は贅沢な宴会好きで職務には熱心でなく、私利を貪り弾劾されたが赦され、免官貶光祿大夫。
永徽初
致仕,加特進。
顯慶元年
卒 78才.贈開府儀同三司并州都督.陪葬昭陵.謚曰襄
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