唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南節度使史3

2020-11-26 19:37:45 | Weblog
◎.陳少游は小恵を与えながら吏治に励み、収斂して莫大な資産を築き、宰相元載や宦官駱奉先、劉清潭、吳承倩に多額の贈賄をしたため、代宗皇帝はその忠誠を信じきり、相継いで檢校禮部・兵部尚書を加えた。

大暦十一年[776]
◎.8月 宣武李靈曜が、魏博田承嗣と通じて反し、淮南節度使陳少游は淄青節度使李正己とともにこの征討に参加した。

◎.10月 李忠臣・陳少游等は李靈曜を汴州城西に破った。

建中二年[781]
◆.正月 泗州隸淮南

◎.11月 淄青節度使李正己が卒し、子の納が自立した。陳少游はその海州を撃ち、刺史王涉がせ降った。

◎.12月 李納密州刺史馬萬通が降り、密州刺史とした。

建中三年
◎.正月 李納が海・密州を奪回した。

◎. 陳少游に檢校左僕射,賜實封三百戶が加えられた。

建中三年[782]
◎.4月 軍費が急増したため、陳少游は田塩税の2割の増税を提案し、5月認められた。

◎.11月 宰相盧杞や關播との私的関係や貢納の功績により少游は同平章事を加えられた。

建中四年[783]
◎.9月 德宗の養子舒王謨が揚州大都督荊襄江西沔鄂節度諸軍行營兵馬都元帥となり、普王に変えられた。淮寧戦線の統帥を統一するもので、幕僚も指名されたが奉天の乱で取りやめになった。

◎.11月 陳少游は淮西李希烈を討つため出兵し、盱眙に屯したが、朱泚の乱を聞き撤退し兵備を強化した。浙江節度韓滉も石頭城を築き少游と対抗した。

◎. 鹽鐵使包佶は貢納錢を京師に運ぼうとしたが、少游はこれを横領した。江西節度曹王皋だけが唐朝に忠実であった。

◎.12月 優勢な李希烈をみて、少游は參謀温述を送り通じた。また巡官趙詵を李納に派遣して協調させた。

興元元年[784]
◎.正月 李希烈は陳少游の歸順を認めた。しかし壽州刺史張建封は従わず唐朝に附いた。

◎. 唐朝は張建封を濠壽廬三州都團練使として淮南より切り離し、淮西防衛に当たらせた。

◆.建中4.置壽州都団練使
◆.興元1.罷領壽廬濠三州隷壽州觀察

◎. 李希烈は將杜少誠を淮南節度使として壽州を攻撃させたが抜けず、蘄黄州を攻めさせたが曹王皋將蘄州刺史伊慎に大敗した。

◎. 李希烈の大敗を知った少游はあわてて奪った貢納を納入させた。

興元元年
◎.5月 危機に瀕していた德宗皇帝は陳少游に檢校司徒を加えて慰撫した。

◎.11月 浙西韓滉が莫大な貢米を送ったことを知った少游もあわてて貢米二十萬斛を送った。

◎.12月 劉洽が汴州を回復し、李希烈の起居注[皇帝としての記録]を得た。中に「陳少游上表歸順」と書かれており、聞き知った少游は脅えて病となり、乙亥,卒した。自殺かもしれない。德宗皇帝は追及せず贈太尉として遇した。

◎. 淮南大將王韶は自立しようとしたが、浙江韓滉に威嚇されてやめた。

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