宗皇帝の貞元年間の姑息な消極により蓄積された財力と鬱屈によるパワーは、短期の順宗を経て若い憲宗皇帝により積極策に転換していった。河北の諸鎭、特に成徳王承宗への数次の征討は失敗の連続であったが、義武や横海といった小藩は経済的な困難もあり唐朝への帰属を求める傾向があった。元和5年[810年]義武張茂昭は易定二州をもって帰国し、三鎭は唐朝勢力により分断されることになり、ついで元和7年魏博で田弘正が立ち、親唐朝体制を取ると、もともと幽州劉一族は消極的ながら親唐朝であったので成徳は孤立することになった。王承宗は淮西呉元濟や淄青李師道と連合して対抗したが、元和12年[817年]淮西が平定されると、13年徳棣二州を上納して帰服し、横海程權もまた滄景二州をあげて帰朝した。15年承宗が卒すると、弟承元は鎭冀深趙四州を返上し、魏博田弘正が成徳に移鎭、魏博には唐朝將李愬が入った。長慶元年[821年]には残る幽州劉總もまた帰朝し、元宰相張弘靖が赴任して河北全域が唐朝の管轄に戻った。
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