天寶十載 西暦751年
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正月丁酉,李林甫兼朔方軍節度副大使、安北副大都護。
正月戊申,安西四鎮節度使高仙芝執突騎施可汗及石國王。
仙芝は石國王を騙して捕らえ、その財宝を私しました。このことは西域諸国にバレて不信を買い、イスラム勢力と結ばせました。
安禄山が玄宗に寵遇され、平盧・范陽・河東の三節度使を兼任することになりました。しかし宰相林甫に対しては強い懼れを抱き疑惑をかわないように努めていました。
四月壬午,劍南節度使鮮于仲通及雲南蠻戰於西洱河,大敗績,大將王天運死之,陷雲南都護府。
南詔[雲南蠻]を攻めて功績を上げようと焦ったため、返って山岳戦で大敗しました。仲通は楊國忠の手下であったので、責任を問われませんでした。
七月,高仙芝及大食戰於恒邏斯城,敗績。
教科書では紙の伝来とか、イスラム勢力と中国の衝突とか書かれて有名なタラスの戦いですが、唐朝にとっては辺境の一敗戦にすぎません。高仙芝も敗戦の責任など問われていません。旧唐書では無視されています。
八月,范陽節度副大使安祿山及契丹戰於吐護真河,敗績。
安禄山も功績を求めて契丹を攻め、深入りして大敗しました。これも寵臣であるため責任を問われません。
十月壬子,幸華清宮。十一月乙未,幸楊國忠第。
各地で敗戦が続いていますが、老耄した玄宗はなにも知らず楊貴妃と遊び呆けています。
天寶十一載 西暦752
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二月庚午,突厥阿布思[李獻忠]寇邊。
朔方節度軍[李林甫遥領]の実質軍事力であった李獻忠が安禄山に憎まれたため反して逃亡しました。
四月乙酉,戸部郎中王銲、京兆人邢縡謀反,伏誅。丙戌,殺御史大夫王鉷。
李林甫の忠実な財政的な手下であった王鉷が、弟銲の謀叛の巻き添えで誅されました。銲達は無頼で不法を重ねていたのは確かですが、謀叛まで画策していたかは不明です。楊國忠は林甫派の失脚を願い宰相陳希烈と通じて告発し、既に病身の林甫は鉷を救ってやることができませんでした。
五月,京兆尹楊國忠加御史大夫、京畿、關内采訪等使,凡王珙所綰使務,悉歸國忠。
玄宗の信任を得た國忠は財政利権を掌握しました。
六月壬午,御史大夫兼劍南節度使楊國忠敗吐蕃于雲南,克故洪城。
國忠がその旨を上奏しただけです。事実かどうかは不明です。國忠にとって老耄した玄宗はどうでもよく、怖い林甫は重病でした。
十一月乙卯,李林甫薨。庚申,楊國忠為右相。
佞臣林甫は老耄した玄宗に代わり、国政を壟断し、競争相手を粛清してきました。あちこちにほころびができた帝国全般に目を配り、なんとかボロを出さず運営してきたことも事実です。林甫の没後は無能な國忠が嗣ぎ、帝国が崩壊し始めます。
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正月丁酉,李林甫兼朔方軍節度副大使、安北副大都護。
正月戊申,安西四鎮節度使高仙芝執突騎施可汗及石國王。
仙芝は石國王を騙して捕らえ、その財宝を私しました。このことは西域諸国にバレて不信を買い、イスラム勢力と結ばせました。
安禄山が玄宗に寵遇され、平盧・范陽・河東の三節度使を兼任することになりました。しかし宰相林甫に対しては強い懼れを抱き疑惑をかわないように努めていました。
四月壬午,劍南節度使鮮于仲通及雲南蠻戰於西洱河,大敗績,大將王天運死之,陷雲南都護府。
南詔[雲南蠻]を攻めて功績を上げようと焦ったため、返って山岳戦で大敗しました。仲通は楊國忠の手下であったので、責任を問われませんでした。
七月,高仙芝及大食戰於恒邏斯城,敗績。
教科書では紙の伝来とか、イスラム勢力と中国の衝突とか書かれて有名なタラスの戦いですが、唐朝にとっては辺境の一敗戦にすぎません。高仙芝も敗戦の責任など問われていません。旧唐書では無視されています。
八月,范陽節度副大使安祿山及契丹戰於吐護真河,敗績。
安禄山も功績を求めて契丹を攻め、深入りして大敗しました。これも寵臣であるため責任を問われません。
十月壬子,幸華清宮。十一月乙未,幸楊國忠第。
各地で敗戦が続いていますが、老耄した玄宗はなにも知らず楊貴妃と遊び呆けています。
天寶十一載 西暦752
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二月庚午,突厥阿布思[李獻忠]寇邊。
朔方節度軍[李林甫遥領]の実質軍事力であった李獻忠が安禄山に憎まれたため反して逃亡しました。
四月乙酉,戸部郎中王銲、京兆人邢縡謀反,伏誅。丙戌,殺御史大夫王鉷。
李林甫の忠実な財政的な手下であった王鉷が、弟銲の謀叛の巻き添えで誅されました。銲達は無頼で不法を重ねていたのは確かですが、謀叛まで画策していたかは不明です。楊國忠は林甫派の失脚を願い宰相陳希烈と通じて告発し、既に病身の林甫は鉷を救ってやることができませんでした。
五月,京兆尹楊國忠加御史大夫、京畿、關内采訪等使,凡王珙所綰使務,悉歸國忠。
玄宗の信任を得た國忠は財政利権を掌握しました。
六月壬午,御史大夫兼劍南節度使楊國忠敗吐蕃于雲南,克故洪城。
國忠がその旨を上奏しただけです。事実かどうかは不明です。國忠にとって老耄した玄宗はどうでもよく、怖い林甫は重病でした。
十一月乙卯,李林甫薨。庚申,楊國忠為右相。
佞臣林甫は老耄した玄宗に代わり、国政を壟断し、競争相手を粛清してきました。あちこちにほころびができた帝国全般に目を配り、なんとかボロを出さず運営してきたことも事実です。林甫の没後は無能な國忠が嗣ぎ、帝国が崩壊し始めます。
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