乾符六年 西暦879年
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正月,鎮海軍節度使高駢為諸道行營兵馬都統。
駢はその将張璘等を派遣して黄巣軍ほ追撃し、賊将秦彥・畢師鐸・李罕之・許勍を降して配下に加えました。
二月,河東軍亂,殺其節度使崔季康。
河東軍の綱紀は完全に崩壊し、軍乱が頻発しました。節度使を李侃[遁走]・康傳圭[乱殺]と交代させましたがどうにもなりません。沙陀討伐などはできるはずもありません。
四月、王鐸為荊南節度使、南面行營招討都統。五月,泰寧軍節度使李系為湖南觀察使,副之。
事態に危機感を感じた宰相王鐸は自ら荊南節度使・都統となり黄巣討伐に赴任しました。実戦は德宗時代之名将李晟の曽孫である系/係です。彼は兵事に通じていると称していました。
当時は高級官僚は文官貴族が占有[科挙である進士科に合格するものの多くは貴族が占有し、任用は独占していました。試験官が文官貴族なのですからどうにでもなります]、高級武官は宦官系と世襲武官[王智興など以前の武将の子孫]からなっていました。実戦能力に富む武将などはほとんどいません。高崇文の孫である駢など少数の例外はいますが。
五月、黃巢陷廣州,執嶺南東道節度使李迢,陷安南。
巢は南下して嶺南を占有し、一時は故郷の天平節度使か、富裕な嶺南節度使に任用されることを考えました。ところが貿易の利を失うことを懼れた宦官勢力が抵抗している間に、高温多湿な廣州で多くの巢軍將士が疾病となり、恐慌をきたして北上を求めました。巢もそれに圧されて再び河南をめざしました。
八月、鎭海節度使高駢は南下して嶺南の黄巣を討つことを求めましたが、唐朝の宰相達は硬軟に分裂しており、王鐸もまた功を求めたため許しませんでした。
閏十月,黃巢陷潭、澧三州。十一月辛酉,黃巢陷江陵。
丁丑,山南東道節度使劉巨容及黃巢戰于荊門,敗之。
巢軍は李係が唐軍主力が屯する潭州を奇襲し、無能な係は遁走し軍は潰滅しました。それを知った鐸も江陵を棄てて逃げ、巢は江陵に入りました。
しかし山東節度使劉巨容・曹全晸はさらに北上する巢を荊門に迎撃し大破しました。巢軍は一時潰滅し、徹底追撃すれば鎮圧は可能と見られていましたが、巨容達は適当に戈を収めて引き上げました。巨容達にすれば賊がいなくなると自分達も冷遇される[狡兎死して走狗煮られる]という気持ちでした。そのため逃亡した巢軍も江南で再編成ができました。
旧唐書では王鐸・劉巨容の件は次年[廣明元年二月から三月]の記事になっています。このような重大事ですら正史は混乱しています。より正しいと思われる新唐書と通鑑に沿っています。
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正月,鎮海軍節度使高駢為諸道行營兵馬都統。
駢はその将張璘等を派遣して黄巣軍ほ追撃し、賊将秦彥・畢師鐸・李罕之・許勍を降して配下に加えました。
二月,河東軍亂,殺其節度使崔季康。
河東軍の綱紀は完全に崩壊し、軍乱が頻発しました。節度使を李侃[遁走]・康傳圭[乱殺]と交代させましたがどうにもなりません。沙陀討伐などはできるはずもありません。
四月、王鐸為荊南節度使、南面行營招討都統。五月,泰寧軍節度使李系為湖南觀察使,副之。
事態に危機感を感じた宰相王鐸は自ら荊南節度使・都統となり黄巣討伐に赴任しました。実戦は德宗時代之名将李晟の曽孫である系/係です。彼は兵事に通じていると称していました。
当時は高級官僚は文官貴族が占有[科挙である進士科に合格するものの多くは貴族が占有し、任用は独占していました。試験官が文官貴族なのですからどうにでもなります]、高級武官は宦官系と世襲武官[王智興など以前の武将の子孫]からなっていました。実戦能力に富む武将などはほとんどいません。高崇文の孫である駢など少数の例外はいますが。
五月、黃巢陷廣州,執嶺南東道節度使李迢,陷安南。
巢は南下して嶺南を占有し、一時は故郷の天平節度使か、富裕な嶺南節度使に任用されることを考えました。ところが貿易の利を失うことを懼れた宦官勢力が抵抗している間に、高温多湿な廣州で多くの巢軍將士が疾病となり、恐慌をきたして北上を求めました。巢もそれに圧されて再び河南をめざしました。
八月、鎭海節度使高駢は南下して嶺南の黄巣を討つことを求めましたが、唐朝の宰相達は硬軟に分裂しており、王鐸もまた功を求めたため許しませんでした。
閏十月,黃巢陷潭、澧三州。十一月辛酉,黃巢陷江陵。
丁丑,山南東道節度使劉巨容及黃巢戰于荊門,敗之。
巢軍は李係が唐軍主力が屯する潭州を奇襲し、無能な係は遁走し軍は潰滅しました。それを知った鐸も江陵を棄てて逃げ、巢は江陵に入りました。
しかし山東節度使劉巨容・曹全晸はさらに北上する巢を荊門に迎撃し大破しました。巢軍は一時潰滅し、徹底追撃すれば鎮圧は可能と見られていましたが、巨容達は適当に戈を収めて引き上げました。巨容達にすれば賊がいなくなると自分達も冷遇される[狡兎死して走狗煮られる]という気持ちでした。そのため逃亡した巢軍も江南で再編成ができました。
旧唐書では王鐸・劉巨容の件は次年[廣明元年二月から三月]の記事になっています。このような重大事ですら正史は混乱しています。より正しいと思われる新唐書と通鑑に沿っています。
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