らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

“熊野古道を歩く”第3弾(その1)得生寺

2011-08-03 | 趣味

先日、以前、私が勤めてい会社のOB会の一つ”歴史探訪同好会”メンバーと熊野古道(紀伊路ルート)を歩いてきました。
そこで今日から「熊野古道を歩く」シリーズを数回に分けてご紹介します。

私が熊野古道を歩くのは今回が3回目です。
前回の第2弾はJRきのくに線・海南駅(和歌山県)近くの「藤代王子」から「山口王子」までの14㎞程の古道を歩き通し、その記事は5月10日から20日まで当ブログにアップしています。

今回は13名が参加し、出発地点であるJRきのくに線・紀伊宮原駅に集合後、最初の王子である44番目の「糸我王子」を目指しました。
途中、スタートから2㎞弱のところで得生寺(とくしょうじ)に参拝しました。



・得生寺の境内です。


「本堂」
得生寺は「中将姫の寺」として有名です。
中将姫(ちゅうじょうひめ)は天平19年(747)に右大臣藤原豊成の娘として生まれますが、姫が13才のとき継母のため奈良の都から糸我の雲雀山に捨てられ、3年の間に称賛浄土経一千巻を書写したと伝えられています。
また、姫の従臣伊藤春時(剃髪して得生となる)が姫を養育した所に草庵を結び、安養院と号したのが始めといわれています。

・得生寺(浄土宗)本堂です。


「中将姫伝説」
聖武天皇の御代、中将姫は747(天平19)年に右大臣藤原豊成の娘として生まれました。琴に長じ天皇の寵愛を得たが13歳の時に継母の恨みをかい、奈良の都よりはるかなる紀州有田の雲雀山に捨てられ、やがて殺害せよとの命を受けて、伊藤春時がこの地にやって来ました。
しかし、継母の心がなおるようにと写経に専念する姫の姿に打たれた彼は得生と名乗って出家し、同じく出家した妻の妙生と共に姫の面倒をみることになります。得生寺の名前はここからつけられています。

やがて得生は病没し妙生が一人で姫を養っていたところに豊成公が狩にこの地に来られ、殺されたはずの娘と再会しました。そして都に連れて帰られますが、姫が17歳の時、自分の為に犠牲になった人々の菩提を弔うため大和の当麻寺に入り法如尼とよばれるようになります。
そして浄土曼荼羅を織り終えて二十五菩薩に迎えられ、29才の若さで短い生涯を終えたと言われています。

・中将姫御影堂(開山堂)
 開山堂には、中将姫・春時夫妻の座像が安置されており、また、中将姫の作と伝えられる蓮糸縫三尊、紺地金泥三部経、称讃浄土経、大麻曼陀羅図なども所蔵されているそうです。


・「ぼけよけ地蔵」です。ボケ防止のためお参りしておきました。


この地蔵の横に「仏教の4つの戒め」が書かれていましたのでご紹介します。
・不忘語・・・うそを言うな
・不悪口・・・人の悪口を言うな
・不両舌・・・二枚舌を使うな
・不綺語・・・心にもないお世辞を言うな