“熊野古道を歩く”シリーズ4回目は糸我峠から「逆川(さかがわ)王子」までをご紹介します。
糸我峠から急な坂道を下る途中に、伝説「夜泣き松」の石柱が立ててありました。
「夜泣き松伝説」
伝説によれば、この付近に後鳥羽上皇の手植えの木だと伝えられている大きな松の木がありました。
平治元年(1159年)、平清盛の熊野詣でに随行していた子供連れの女人がいました。(この清盛の吉野詣での隙を狙って源義朝が兵を挙げ、平治の乱が起こりました)
詣での途中、住民に「子供が夜泣きをするので大変困っている」と訴えた時、この近くの大きな松の木の皮を削って燃やし、その煙を吸わせると夜泣きが治ると言われました。
女人に、一度試してみてはいかがかと老女に勧められ、やってみたところ夜泣きが治ったとされています。
・夜泣き松伝説を伝える説明板です。
更に急な坂道を下ったところに「行者石」がありました。
「行者石」
もとは逆川沿いの祓い井戸のそばにあって、旅人はこの石の上で体を清め、道中の安全を願ったようです。
糸我峠から急な坂道を1㎞余り下るとそこに「逆川(さかがわ)王子」(逆川神社)があります。
「逆川(さかがわ)神社」
「逆川(さかがわ)神社」は国津神社に合祀されましたが、昭和12年に社殿と石段を新たに建立し再建されました。この逆川神社の奥に見える祠が「逆川王子」です。
「逆川王子」
説明板によれば、藤原宗忠の日記、1109年(天仁2年)10月18日に逆河王子と書かれているのが最も古い文献だそうです。藤原定家は「サカサマ王子」と呼んでいます。
この王子は江戸時代には吉川村の氏神として祀られ、神主が置かれていたようです。
明治時代には村社となっていましたが、明治43年の神社合祀で田村の国主大明神(現、国津神社)に合祀されました。
王子の名の由来は、定家が王子の近くを流れる川のことを「水が逆流しているので、この名がある」と日記に書いているように、付近の多くの川とは異なり、西の海の方へは流れず、東へ流れているところから逆川と呼ばれたようです。
逆川王子の祠です。古来の形を伝えていると言われています。
「吉川の名の由来」
通常は海に向かって流れる川が逆さに流れているので逆川と名がついた。それに伴い近くにあった神社も逆川神社と呼ばれ、この土地も逆川と称するようになったようであるが、土地の人はこの名を嫌い、吉いことのあるように祈って村の名を吉川と改名したと伝えられています。
「逆川(川の名前)」
紀州の川は地形状東から西へ流れるのが通常ですが、この川は東が低く、西が高いため水は西より東に流れているため『逆川』と名付けられたようです。
この川は東に流れて山田川に合流し、湯浅湾に入るそうです。この「逆」を嫌って村の名を吉川にしましたが、川の名前は「逆川」のまま残っています。