日本百名山の一つ、八甲田山(はっこうださん)が青森県にあります。
「八甲田山」は単独峰ではなく、青森市の南側にそびえる火山群の総称のことだそうで、命名の由来は、八の(たくさんの)甲(たて)状の峰と山上に多くの田代(湿原)があるからと言われており、周辺は世界でも有数の豪雪地帯だそうです。
111年前に、この豪雪がもたらした悲惨な遭難事件がありました。
それは、「八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)」で、今日1月23日がその雪中行軍に出かけた日ということで、「八甲田山の日」とされています。
「背景」
雪中行軍訓練の背景は、日清戦争(1894年8月~95年4月)で勝利をおさめた日本は日清戦争後、遼東半島や中国東北部の利権を巡ってロシア帝国との対立が年々激しくなっていました。
ロシアが朝鮮半島にまで触手を伸ばし始めたことに危機感を抱いた日本は、対ロシア戦争を想定し帝国陸海軍の軍備を増強していきました。
こうした中、青森に司令部を置く帝国陸軍第5連隊では、日露戦勃発後のロシア軍の青森近郊への上陸や陸奥湾封鎖などを想定した対策を考え出す必要があったようです。
ロシア軍により鉄道が爆破されたり海岸線付近を占領された場合は、内陸の八甲田連峰を徒歩で移動するということになることから、八甲田連峰の行軍に関する研究が行われることになり、やがて冬期の雪中行軍が実施されることになったものです。
そして、明治35年(1902年)1月23日午前6時55分、気温零下6度の中、雪中行軍隊は営門を出て演習は実施されましたが、冬の八甲田山は冬の重装備が必要なのに、指導部の無謀さから兵士は軽装のまま行軍を開始したため、猛吹雪の中で道を失い、寒さと飢えと疲労の為に遭難したものです。
「八甲田雪中行軍遭難事件」は、日本陸軍第8師団 歩兵第5連隊の訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという、日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者が発生したことで記憶されており、映画や小説でも取り上げられていることからよく知られている無謀で悲惨な遭難事件です。