十丈王子から次の大坂本王子までの道のりは約4㎞ですが、その3分の2は急坂もある上り道で、標高700m余りまで登ります。
この頃、メンバーの内の一人が、両足の太ももの筋肉が吊ってきて歩けなくなり、休憩を取ったり、マッサージをしながらの歩行となりました。
介抱しながらの歩行で、予定時間より大幅に遅れ、2時間余り要して漸く大坂本王子に到着しました。
・「一里塚跡」です。 石碑の横面には「和歌山から25里」と彫られています。
「上多和(うわたわ)茶屋跡」
説明板によれば、この山上は上多和と呼び、標高約600m、熊野詣の盛んな頃は、ここに茶店があったと言われ、大正期にも人家があって林中には三界万霊塔やお墓もあるそうです。
また、この山上には陰暦の11月23日の夜になれば、東の空に三体の月が現れるとの伝承があり、ここにあった注連(しめ)かけ松の下に大勢集まり、栗やきびの餅を供え、心経をくり、月の出をまったと書かれています。
・上多和茶屋跡を示す説明板です。なお、「田和」と云う言葉は山中の場所を表すのによく使われるようです。
「三体月伝説」
上多和(うわたわ)茶屋跡から20分ほど行くと、「三体月伝説」の地があります。
ここに書かれている説明によれば、
今は昔、熊野三山を巡って野中近露の里に姿を見せた一人の修験者が里人に「わしは11月23日の月の出たとき、高尾山の頂で神変不可思議の法力を得た。村の衆も毎年その日時に高尾山に登って月の出を拝むがよい。月は三体現れる」と。
半信半疑で村の庄屋を中心に若衆連が陰暦11月23日の夜高尾山に登って月の出を待った。
やがて、時刻は到来、東伊勢路の方から一体の月が顔をのぞかせ、アッという間にその左右に二体の月が出た。
三体月の伝説は上多和、悪四郎山、槙山にもあるそうです。
・「三体月伝説」の地です。
「逢坂峠」
逢坂峠の石碑です。
ここには「旅人の徒歩行き交ひしげきとき 父祖ここに住み茶屋いとなめり」 花仙
の歌が刻まれています。
「大阪本王子」
逢坂峠を越すと次の王子は「大坂本王子」です。
大坂本王子は逢坂峠東側麓近く、きれいな杉林の坂道を下った、谷川近くにあります。
名前の由来は大坂(逢坂峠)の麓にあるところから、この王子社名がついたようです。
逢坂峠は、急峻な坂道であるため、古くは大坂の名がついていたようです。
同行者1名が足を痛めて歩行困難となったことから予定が大幅に遅れ、木々に囲まれた古道が薄暗くなた6時過ぎに、漸くこの王子社に辿り着きました。
計画では次の近露王子まで行く予定でしたが、急遽予定を変更して国道まで下って民宿の主人に迎えに来てもらいました。
・大坂本王子跡の石碑です。