昨日まで10回に亘ってご紹介してきた“熊野古道を歩く”シリーズは今日が最終回となります。
今日は「中川王子」から「小広王子」までの約2㎞余りをご紹介します。
「中川(なかのがわ)王子」
中川王子は継桜王子のある野中集落を出て、高尾隧道口を過ぎてまもなく、国道の側方の山中にあり、現在は旧址に紀州藩の緑泥片岩碑があるだけです。
ここの掲げられている案内には次のように書かれています。
天仁2年(1109年)に熊野に参詣した藤原宗忠は、10月25日に「仲野川王子」に奉幣し、建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家は、10月14日に「中の河」の王子に参拝しています。
承元4年(1210年)に参詣した修明門院に随行した藤原頼資(よりすけ)の日記以降は「中川」と書くようになりました。
この王子は早くから荒廃したようで、江戸時代の享保7年(1722年)の『熊野道中記』には「社なし」と書かれていて、紀州藩がその翌年、緑泥片岩(りょくでいへんがん)の碑をたてたそうです。
明治末期にはこの碑だけの中川王子神社として金毘羅神社(現、近野神社)に合祀されました。
・中川王子跡の碑と説明板です。
歌人「日比野友子」の歌碑です。
「遠つ世の 蟻の詣でをしのびゆく 熊野古道は 若葉の盛り」 夕子
日比野友子は、昭和50年度、和歌山県文化功労賞受賞者だそうです。
「小広(こびろ)王子」
案内板には次のように書かれています。
天仁2年(1109年)に熊野に参詣した藤原宗忠は、10月25日に「仲野川王子」に奉幣した後、「小平緒(こびらお)」「大平緒(おおびらお)」を経て、岩神峠にむかっています。
また、建保5年(1217年)に後鳥羽院と修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記には、「大平尾(おおびらお)」「小平尾(こびらお)」と書かれています。
この王子社は、「小平緒」「小平尾」に由来すると考えられますが、江戸時代以前の記録に、王子としては登場しておらず、土地の人々が小広峠の上に祀った小祠が、いつの頃か小広王子といわれるようになったと推測されているそうです。
その跡地に紀州藩が享保8年(1723年)に緑泥片岩の碑を建て、明治末期には、この碑だけの小広王子神社として、金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。
もとの小広峠が道路建設で崩されたため、王子碑はここに移されていますが、石碑の上部が欠けて、「王子」の文字のみとなっています。
・石碑だけの小広王子跡です。
今回の予定は小広王子までです。
ここから国道に出ると、小広トンネルを抜けたところにバス停があります。
ここからバスに乗ってJR紀伊田辺駅まで約1時間、更にJRの電車で3時間前後を要して各自帰途につくことになります。
小広峠の由来については、次のように言われています。
ここ小広峠の辺は昔は昼なお暗い山道で、野獣や魔物が現れる不気味な場所だったそうですが、それらから旅人や村人を守ってくれる狼の群れがいたと言われています。
そこから「吼比狼(こびろう)峠」と呼ばれるようになり、「小広峠」となったとのことです。
・バス停で談笑するメンバーたちです。
今回歩いた中辺路コースは急坂が何か所もあるきつい古道でした。
1日目の上多和茶屋跡から大坂本王子への峠越えは、標高700mを超えるハードなコースで、メンバーの中には足がつって歩けなくなる者も出る始末でした。
現役時代のOBが集う「歴史探訪同好会」が、足掛け5年に亘って世界遺産“熊野古道”を歩いてきましたが、いよいよ残り9王子、約19㎞となり、次回(11月予定)には満願叶って熊野本宮大社にお参りできる予定です。