らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

敬天愛人

2016-02-23 | 雑学

西郷隆盛の遺訓に「敬天愛人(けいてんあいじん)」という有名な言葉があります。

「敬天愛人」(南洲翁遺訓第二十四より)
『道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。
天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。』
「意訳」
『道と言うのは、天地が自ら自然に生み出したものであり、人はこれを行うべきものであるから、何よりも天を敬う事を目的とすべきである。
天は人も私も分け隔てなく同様に愛してくれるので、私たちも自分自身を愛するように人を愛すべきである。』

この言葉には、西郷の自己修養のための指針(目標)と、彼の信仰的とも言える天命への自覚という考え方が含まれていますが、この信仰的な言葉のもとになったのにはある出来事があったのだそうです。
その出来事とは、「入水事件」です。

「西郷の入水事件」
安政5年(1858年)11月16日、西郷は僧・月照(げっしょう)と共に、鹿児島錦江湾の海に投身自殺をはかりました。
月照は薩摩藩の朝廷工作に関わっていた京都清水寺成就院の住職ですが、井伊大老が行った「安政の大獄」により、その身に危険が迫ったのです。
「安政の大獄」とは、井伊大老が、反幕府と見られる行動を取った人々を根こそぎ処罰した弾圧事件で、吉田松陰や橋本左内など多数の志士が投獄・処刑されています。

月照は、「将軍継嗣問題(13代将軍家定の跡継ぎを巡る問題)」や薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の率兵上京計画等に、薩摩藩と公家の近衛家との仲介役として大いに働いていた経緯があり、そのため幕府に睨まれることになったのですが、そんな月照の身を案じた西郷は、月照を守るべく薩摩藩内に匿うことを計画しました。

しかし、藩主・島津斉彬の急死により、薩摩藩の方針が大きく変わったため、藩は月照の庇護を拒否したのです。
その上、藩は西郷に対し、月照を藩外に追放するように命じました。
幕府の捕方がいる藩外に月照を連れていくことは、西郷には当然のことながら出来ず、この事態に絶望した西郷は月照と相談し、二人は相伴って寒中の海に身を投じたのです。

結果、月照だけが絶命し、西郷は奇跡的に助かりました。
西郷は気が狂わんばかりに、悩み苦しみ、今からでも月照の後を追って、死にたいと思った事と思います。
しかし、この時、西郷は一つの考え方に行き着いたのです。
天が自分一人だけを助けたのは、天が自分に何か大きな使命を与えているからだと考え、西郷はようやくその苦しみから抜け出すことが出来たのです。
そして西郷は、自分が天によって生かされたという、天命への信仰に目覚め、「敬天愛人」への思想へとつながっていきました。
この後、西郷はいかなる艱難辛苦(かんなんしんく)を何度も味わおうとも、決して自ら命を断つということはしませんでした。

「西郷の逸話」
内村鑑三の『代表的日本人』の中で、西郷を紹介している次のような逸話があります。
『雨の中、西郷隆盛は立ち尽くしていた。宮中から退出する際、いつもの着物姿の上、下駄を無くして裸足だったため、門番に怪しい人物と疑われたのだ。「陸軍大将」と名乗っても信じてもらえず、知人が通りかかるまでひたすら待った。』
内心では腹を立てていたのかも知れませんが、自分が事を荒立てれば門番は処罰されよう。西郷は他者、とりわけ弱者の立場をおもんぱかったのでした。
更に、「西郷は人の平穏な暮らしを決してかき乱そうとはしませんでした。」とも記されています。

この「敬天愛人」の言葉を、日本漢字文化センターが今年の四字熟語に選んだそうです。
世相を憂う選考委員の人たちが「日本人の心のあり方を考える年に」と願いを込めたと言われています。