現在は余り見かけなくなりましたが、嘗ては、繁華街などで依頼主の看板を身体の前後にかけ、鉦や太鼓をたたき、軽快な音楽を奏でながら練り歩くチンドン屋をよく見かけました。
現在では、イベント等のアトラクションとしてたまに見かけることはありますが、嘗てのような宣伝媒体としてのチンドン屋はあまり見られず、昭和の懐かしい趣がなくなりつつあります。
中村草田男の「降る雪や 明治は遠く なりにけり」ではないですが、「「昭和も遠く なりにけり」の感があります。
ところで、通行人を喜ばせてくれたこのチンドン屋は、実は大阪が発祥のようなのです。
そこで今日はその起源を調べてみました。
・京都東映太秦映画村でのチンドン屋です。(2014年11月撮影)
「チンドン屋の起源」
チンドン屋は弘化2年(1845年)、千日前の大阪法善寺の飴売り「飴勝」が得意の売り声で寄席の宣伝を請け負ったことが始まりとされています。
その後、1883年(明治16年)、飴勝の仕事を引き継いだ大阪の「勇亀」は、芝居の口上をまねて「東西、トーザイ」と大声で叫びつつ、町中を触れ回ったことから、勇亀は『東西屋』と呼ばれるようになりました。
このように、明治初期から昭和初期へかけてはチンドン屋の名称はまだなく、〈東西屋〉とか〈広目(ひろめ)屋〉という屋号だったそうです。
この屋号は、街路などで立ち止まって口上を言うとき、最初に〈トザイ,トーザイ〉といったから東西屋であり、開店の披露をするから広目屋といわれたそうです。
昭和初期までは一人で触れ回りをし、多人数を必要とするときはジンタといわれた音楽隊などを加えたと言うことですが、その後、「鉦(かね)」「締太鼓」「大胴(おおどう)」の三種を組み合わせた独特の楽器が考案され、「チンチン、ドンドン」と言う音色からチンドン屋と言われるようになったようです。
因みに、1950年頃には全国に約2500人のチンドン屋がいたとされていますが、1960年代にテレビが普及すると、広告、宣伝の主役は本格的に放送メディアに移行し、チンドン屋は次第にその数を減らしていき、現在に至っているようです。