先日、所用で久しぶりに大阪市内へ出かけてきました。
少し早めに出かけて、今人気のNHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公・あさのモデルとなっている広岡浅子のゆかりの地の一部見学してきました。
「あさが来た」では、ディーン・フジオカが演じる薩摩藩士、実業家の五代友厚(才助)が、ヒロイン・あさ(波瑠)の商いの師匠として重要な役割を果たします。
彼は明治初期、維新変動の波を受けて低迷する大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図り、大阪経済の発展に大きく貢献した大阪経済界の重鎮の一人です。
その彼が大阪の商工業発展を祈念して奉祀した「商工稲荷神社」と「若宮稲荷神社」が合祀されたのが「若宮商工稲荷神社」です。
現在、大阪商工会議所の南隣りに鎮座しています。
「若宮商工稲荷神社」
大阪商工会議所ビル(大阪市中央区本町橋2-8)の南隣りにある若宮商工稲荷神社は、 大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が大阪の商工業発展を祈念して奉祀した「商工稲荷神社」が、 大阪商工会議所の移転に伴って堂島から現在の内本町へ移されることとなり、 昭和40年(1965年)9月に移転先である内本町の建設用地内にあった「若宮稲荷神社」の ご神体と合祀され、新たに建立されたものです。
社殿内には「商工稲荷」と「若宮稲荷」のご神体が並んで祀られています。
「商工稲荷神社」の由来
大阪商工会議所初代会頭の五代友厚は信仰心に厚く、当時武家階級をはじめ大阪商人からも崇敬の念を集めていた船場淀屋橋の御霊神社に、大阪の商工業発展のため商工稲荷祭の神事の挙行を求めたのが、「商工稲荷神社」の縁起とされています。
「若宮稲荷神社」の由来
「若宮稲荷神社」は、天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城築城にあたって奉祀し、加護を祈願したのが始まりとされています。
また、江戸時代にはこの地に西町奉行所が設けられ、同神社は一般庶民にも広く崇敬されるようになり、明治27年(1894年)には府立大阪博物場の鎮守神として永世奉祀されることになりました。
「西町奉行所」
幕府直轄地の大坂では、老中支配の大坂町奉行が、警察・司法・行政の任にあたりました。
町奉行所は地理的位置により東西両奉行所がおかれ、1カ月交代で執務しました。
東・西の奉行所は現大手前合同庁舎のところに並んでありましたが、享保(きょうほう)9年(1724年)の大火後、西町奉行所は当地に移ったそうです。
「五代友厚像(左)」
略歴・・・大阪商法会議所(現大阪商工会議所)第1代会頭/明治11年(1878年)9月~明治18年(1885年)9月
出身地/薩摩国鹿児島郡、天保6(1836)年12月26日生れ
職歴/金銀分祈所、大阪活版所、弘成館、朝陽館、大阪製銅会社、大阪株式取引所、大阪商法会議所、大阪商業講習所創設など
「五代友厚銅像横銘板」
君の諱(本名)は友厚、通称は才助、鹿児島藩士。
幕末日本の前途を察し、安政年間に長崎へ行って航海術を学んだ。そして藩の密命をおびて上海に潜航、軍艦を購入し、帰国後はその艦長となった。
のちに寺島宗則等留学生をひきいてヨーロッパを巡遊、各国の商工事業を研究し大いにうる所あり、帰って藩の商事を運営するとともに、始めて長崎にドックを設けた。
明治になって政府の参与に任ぜられ、外国官会計官判事、大阪府判事を歴任、従五位に叙せられた。
その後、官を辞して大阪に居を移し、金銀分析所を設け各地の鉱山を開いた。また商業会議所を創立、政界と財界の間をとりもって諸企業を奨励し会社を作り、後の人の範となり公益をはかったことはまことに大であった。
明治18年9月25日、50才にして病のため没した。
・大阪商工会議所南隣りに建っている、初代、7代、10代の会頭の銅像です。
「土居通夫像(中)」
略歴・・・第7代会頭/明治28年(1895年)4月~大正6年(1917年)9月
出身地/伊豫国宇和島、天保8年(1837年4)月21日生れ
職歴/大阪府権少参事、大阪控訴裁判所所長、鴻池顧問、京阪電気鉄道(株)社長、大阪電灯(株)社長など
土居会頭時代には、関西・大阪の電気・鉄道網の整備等のインフラ整備を実施し、なかでも大阪・新世界で開催された第5回内国勧業博覧会の誘致・開催など大阪の近代化、国際化に大きな足跡を残しました。
「稲畑勝太郎像(右)」
略歴・・・第10代会頭/大正11年(1922年)12月~昭和9年(1934年)7月
出身地/京都市、文久2年(1862年)10月30日生れ
職歴/稲畑(株)、日本染料製造(株)、日土貿易協会、関西日仏会館設立など
稲畑会頭時代には、そのフランス留学の経験を生かし、大阪の国際化に大きな貢献を行った大阪貿易学校の設立や、欧米への視察団の派遣をはじめとした貿易振興の活動を積極的に実施し、我が国の国際関係の改善に力を尽くしました。