らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

壺坂・高取を歩く(5)高取城跡

2016-11-26 | 趣味

今日は日本三大山城の一つ、高取城についてご紹介します。
高取城は、標高584mの高取山の山頂ににある国内最大規模の山城です。

これが威容を誇っていた高取城ですが、明治6年(1873年)に廃城となりました。しかし、明治20年(1887年)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたそうです。


奈良産業大学が、高取城CG再現プロジェクトで昔の高取城を再現している写真です。
高取城は元和元年(1615年)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在も石垣や石塁が残されています。
高取城のように山城のまま石垣、天守、櫓、門、殿舎まで築かれた例は少なく、山城でありながら小天守まである貴重な城です。



高取城は、日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)、岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられています。
高取城は三層の天守、小天守を擁し、27の櫓(内、多門櫓5)、33の門、土塀2,900m、石垣3,600m、橋梁9、堀切は5ヶ所あります。
現在、楼閣などは消滅していますが、石塁等は旧規模のまま存在し、本丸・ニノ丸の約10m余の石垣は昔日の傍観を呈し、更に当初の土塀跡も樹林雑草に隠見する遺構によって察知することが出来る等、ふもとの城下町とともに明治まで続いた山城としては、日本で、ほとんど唯一の例で、極めて貴重な遺構で、国の指定史蹟となっています。



高取城址の石碑ですが、ここから本丸まではまだ長い道のりでした。


「高取城」
高取山(583.9m)山頂に築かれた典型的な山城です。
南北朝以来、越智・本多・植村氏の居城として使われてきました。
元弘2年(1332年)、南朝方に属した高取の豪族、越智八郎が築城。越智氏の時代(1533年)までは、深谷峻崖の天険を利し、橋梁を設け本棚を廻らしたカキ上げ城で本城は貝吹山城でした。
その後、郡山城主となった豊臣秀長の命を受け、天正13年(1583年)に本多氏が入城、時の軍学者、諸木大膳が技師長となり、石塁を築き土塀を廻らし、本丸に大小の天守閣を起こし、多門を連ね、幾多の櫓楼を配して、山城に平城の築城技術の長所を採用し、要害堅固と美観の完成で面目を一新。近世的城郭として整備されました。

・本丸の石垣です。
本丸の石垣はひと際高く見上げるほどですが、その前にある巨木は、その大きさから城がまだ現役だった頃から植えられていたと推測されており、今や城を圧倒する高さまで成長しています。


「壺坂口門跡」
城内の道は敵を防ぐために入り組んで造られています。
何度も石垣に囲まれた曲がり道を進まされ、容易に天守閣に近づけないような造りになっています。
それも当然のことで、この高取城は江戸期に作られた城主の権威を示すものとして造られたというより、天然の要害を利用して造った実践向きの本格的な山城なのです。
関ヶ原の戦いの直前に、東軍についた本多氏は西軍の大軍に囲まれますが、この高取城に頼って戦い、陥落することは無かったそうです。



「大手門跡」です。