連続テレビ小説「あさが来た」の関連施設の一部をご紹介しています。
今日はドラマのヒロインあさのモデルとなった広岡浅子。彼女が創業した大同生命保険㈱で特別展示されている、『大同生命の源流"加島屋と広岡浅子"』をご紹介します。
大同生命大阪本社2階メモリアルホールの会場では、大坂の豪商「加島屋」の歴史や、七転び八起きを超える九転十起の頑張りで、「加島屋」を切り盛りし、大同生命を興し、更に日本女子大学校の創立にも関わった女性実業家の「広岡浅子」の波瀾に満ちた生涯が紹介されていました。
館内は撮影禁止だったので、人物と加島屋本家はパンフレットの画像を使用しました。
・大同生命大阪本社です。
大同生命の設立に関わったのは大阪有数の豪商、加島屋(広岡家)で、初代社長には広岡久右衛門正秋(浅子の夫の弟)が就任しました。
大正14年に定められた現本社地はかつては加島屋本家があった場所です。
この建物はヴォーリズの流れをくむ一粒社ヴォーリズ建築事務所と日建設計が設計したビルで、大阪都市建築景観賞受賞作品だそうです。
・大同生命大阪本社エントランスです。
・大阪本社2階の特別展示「大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”」の入口に設置されているパネルで、正面が「加島屋本家」、右が大同生命旧肥後橋本社ビルです。
「広岡浅子」
大同生命は、1902(明治35)年、当時朝日生命(現在の朝日生命とは別会社)を経営していた加島屋(かじまや)が主体となって、東京の護国生命、北海道の北海生命との合併により設立されました。
江戸時代、大坂有数の豪商であった加島屋は、明治維新の動乱により家勢が傾きますが、その危機を救ったのが17歳で加島屋の次男・広岡信五郎に嫁いだ広岡浅子です。
浅子は、七転び八起きを超える「九転十起」を座右の銘とし、炭鉱経営等に参画。さらに中川小十郎(ドラマではへーさん)をはじめとする有能な人材を招聘し、大同生命の創業にも深く関わるなど、その手腕を遺憾なく発揮します。
加島屋を立て直した浅子は、夫・信五郎が亡くなった後、事業を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に託し、女性の地位向上に尽力します。
1919年(大正8年)、71歳でその生涯を閉じた浅子は「普段から言っていることが遺言」だとして、最期の言葉を残さなかったそうです。
・本が好きだった広岡浅子です。(1849年ー1919年)
「加島屋(かじまや)」
大同生命の源流である加島屋は江戸時代、経済の中心・大坂を代表する大商人であり、日本の経済史を語る上でも外せない存在です。
朝ドラでは白岡あさが嫁いだ加野屋という名前で登場する両替商は加島屋という実在した両替商です。
加島屋は江戸時代初期ぐらいからある豪商の一つであり、大坂のみならず幕府とも連携して日本経済を支える重要な民間企業でした。
元々はお米を扱う家だったこと、米相場や取引、蔵屋敷など専門的な当時の商売の習慣がパネルで解説されています。
・土佐堀川のほとりにあった加島屋本家です。
「大阪の豪商・加島屋」
江戸時代、大坂の豪商といえば、鴻池善右衛門や淀屋辰五郎を思い浮かべるかも知れませんが、加島屋久右衛門も、大坂では鴻池とならび称される豪商だったそうで、豪商番付がそれを示していました。
連続テレビ小説「あさが来た」で五代友厚氏の名前を初めて知ったと言う方も多いと思います。
私は昨年4月に北浜の大阪証券取引所の前に建っている銅像を見て知ったのですが、明治維新から明治18年に亡くなるまで、こんなに大阪経済の発展に尽力された方とは知りませんでした。
「東の渋沢栄一、西の五代友厚」とも称され、大阪経済の近代化に尽くした実業家である五代友厚氏の銅像が、関連する市内の施設に建てられています。
今日はその中から光世証券と大阪証券取引所前、そして昨日除幕が行われた大阪市立大学の銅像をご紹介します。
「光世証券の銅像」
光世証券本店(大阪)のエントランス前に、右手を前に出しながら北浜を見つめる若かりし頃の五代友厚の坐像があります。
近代日本の先駆者として大阪経済の発展の基盤を築いた五代友厚氏の功績を称え、その精神と勇気を今に伝えるために光世証券の玄関に鎮座しているのだそうです。
五代友厚氏は1868年(明治元年)に外国事務局判事として大阪在勤となりましたが、その後退官し、民間人として大阪の経済再建に努力しました。
自ら事業を起こしたほか、様々な会社の設立にも関与し、近代大阪経済の父とも呼ばれています。
・五代友厚像です。・・・彫刻家 中村晋也氏、日本芸術院会員 文化勲章受章(2007年)
「大阪証券取引所前の五代友厚像」
五代友厚(1835年(天保6年)~1885年(明治18年)は薩摩藩士の次男として生まれ、藩校の造士館や長崎で学び、上海への渡航や薩英戦争を経験した後、1865年(慶応元年)から翌年にかけて、薩摩藩の留学生とともにイギリスほかヨーロッパ各国を巡りました。
明治維新となった1868年(明治元年)、政府の外国事務局判事や大阪府権判事、会計官権判事などに任じられ、大阪に赴任しました。
この時、大阪に造幣寮(現・造幣局)を設立しています。
翌年、政府の役人を退官し、大阪で実業の世界に入りました。
以後、鉱山、紡績、製塩、海運、鉄道など数多くの事業に携わったほか、大阪株式取引所(現・大阪取引所)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所、初代会頭)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)などの設立にも関与し、大阪の産業・経済の発展に力を尽しました。
・大阪証券取引所前に建っている五代友厚像です。(1865年~1866年頃の姿像だそうです。)
「大阪市立大学の五代友厚像」
2016年2月12日に五代友厚の生誕180周年を迎えることから、これを記念して大阪市立大学の同窓会が主導して、五代の銅像建立が進められているとのニュースが先日報じられていましたが、昨日、除幕式が行われました。
鹿児島県出身の五代友厚は、大阪市立大学の前身である大阪商業講習所の創設に尽力した人物です。
銅像は高さは約3・4メートル、右手に書物を持ち、目線は遠い海外を見つめるよう作成されていますが、同窓会事務局によると、これは「今以上に勉学に励み、海外にも目を向けてほしい」との学生へのメッセージが込められているそうです。
事業費約3千万円の大半は卒業生からの寄付で賄ったそうです。
・大阪市立大学に設置された五代友厚像です。(ネットより)
先日、所用で久しぶりに大阪市内へ出かけてきました。
少し早めに出かけて、今人気のNHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公・あさのモデルとなっている広岡浅子のゆかりの地の一部見学してきました。
「あさが来た」では、ディーン・フジオカが演じる薩摩藩士、実業家の五代友厚(才助)が、ヒロイン・あさ(波瑠)の商いの師匠として重要な役割を果たします。
彼は明治初期、維新変動の波を受けて低迷する大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図り、大阪経済の発展に大きく貢献した大阪経済界の重鎮の一人です。
その彼が大阪の商工業発展を祈念して奉祀した「商工稲荷神社」と「若宮稲荷神社」が合祀されたのが「若宮商工稲荷神社」です。
現在、大阪商工会議所の南隣りに鎮座しています。
「若宮商工稲荷神社」
大阪商工会議所ビル(大阪市中央区本町橋2-8)の南隣りにある若宮商工稲荷神社は、 大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が大阪の商工業発展を祈念して奉祀した「商工稲荷神社」が、 大阪商工会議所の移転に伴って堂島から現在の内本町へ移されることとなり、 昭和40年(1965年)9月に移転先である内本町の建設用地内にあった「若宮稲荷神社」の ご神体と合祀され、新たに建立されたものです。
社殿内には「商工稲荷」と「若宮稲荷」のご神体が並んで祀られています。
「商工稲荷神社」の由来
大阪商工会議所初代会頭の五代友厚は信仰心に厚く、当時武家階級をはじめ大阪商人からも崇敬の念を集めていた船場淀屋橋の御霊神社に、大阪の商工業発展のため商工稲荷祭の神事の挙行を求めたのが、「商工稲荷神社」の縁起とされています。
「若宮稲荷神社」の由来
「若宮稲荷神社」は、天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城築城にあたって奉祀し、加護を祈願したのが始まりとされています。
また、江戸時代にはこの地に西町奉行所が設けられ、同神社は一般庶民にも広く崇敬されるようになり、明治27年(1894年)には府立大阪博物場の鎮守神として永世奉祀されることになりました。
「西町奉行所」
幕府直轄地の大坂では、老中支配の大坂町奉行が、警察・司法・行政の任にあたりました。
町奉行所は地理的位置により東西両奉行所がおかれ、1カ月交代で執務しました。
東・西の奉行所は現大手前合同庁舎のところに並んでありましたが、享保(きょうほう)9年(1724年)の大火後、西町奉行所は当地に移ったそうです。
「五代友厚像(左)」
略歴・・・大阪商法会議所(現大阪商工会議所)第1代会頭/明治11年(1878年)9月~明治18年(1885年)9月
出身地/薩摩国鹿児島郡、天保6(1836)年12月26日生れ
職歴/金銀分祈所、大阪活版所、弘成館、朝陽館、大阪製銅会社、大阪株式取引所、大阪商法会議所、大阪商業講習所創設など
「五代友厚銅像横銘板」
君の諱(本名)は友厚、通称は才助、鹿児島藩士。
幕末日本の前途を察し、安政年間に長崎へ行って航海術を学んだ。そして藩の密命をおびて上海に潜航、軍艦を購入し、帰国後はその艦長となった。
のちに寺島宗則等留学生をひきいてヨーロッパを巡遊、各国の商工事業を研究し大いにうる所あり、帰って藩の商事を運営するとともに、始めて長崎にドックを設けた。
明治になって政府の参与に任ぜられ、外国官会計官判事、大阪府判事を歴任、従五位に叙せられた。
その後、官を辞して大阪に居を移し、金銀分析所を設け各地の鉱山を開いた。また商業会議所を創立、政界と財界の間をとりもって諸企業を奨励し会社を作り、後の人の範となり公益をはかったことはまことに大であった。
明治18年9月25日、50才にして病のため没した。
・大阪商工会議所南隣りに建っている、初代、7代、10代の会頭の銅像です。
「土居通夫像(中)」
略歴・・・第7代会頭/明治28年(1895年)4月~大正6年(1917年)9月
出身地/伊豫国宇和島、天保8年(1837年4)月21日生れ
職歴/大阪府権少参事、大阪控訴裁判所所長、鴻池顧問、京阪電気鉄道(株)社長、大阪電灯(株)社長など
土居会頭時代には、関西・大阪の電気・鉄道網の整備等のインフラ整備を実施し、なかでも大阪・新世界で開催された第5回内国勧業博覧会の誘致・開催など大阪の近代化、国際化に大きな足跡を残しました。
「稲畑勝太郎像(右)」
略歴・・・第10代会頭/大正11年(1922年)12月~昭和9年(1934年)7月
出身地/京都市、文久2年(1862年)10月30日生れ
職歴/稲畑(株)、日本染料製造(株)、日土貿易協会、関西日仏会館設立など
稲畑会頭時代には、そのフランス留学の経験を生かし、大阪の国際化に大きな貢献を行った大阪貿易学校の設立や、欧米への視察団の派遣をはじめとした貿易振興の活動を積極的に実施し、我が国の国際関係の改善に力を尽くしました。
昔から笑いは健康によいと言われていますが、最近では日常生活で殆ど笑わない高齢者が多いそうです。
ある調査によれば、日常生活で殆ど笑わない高齢者は、ほぼ毎日笑う高齢者よりも脳卒中の割合が1.6倍高いそうです。
加えて、「笑い」はストレスを解消し、病気を遠ざけることがさまざまな研究で明らかになっており、生活習慣病の予防に「笑い」が大いに役立つそうです。
今日は笑いについて調べました。
中唐に「笑わない者は馬鹿者だ」と漢詩を詠んだ詩人がいます。
その人は白居易(はくきょい:772年~846年)という詩人で、「酒に対す」と題して次のように詠んでいます。
蝸牛角上争何事 蝸牛(かぎゅう)角上(かくじょう)何事をか争う
石火光中寄此身 石火(せっか)光中(こうちゅう)此の身を寄す
随富随貧且歓楽 富に随(したが)い貧(ひん)に随(したが)い且(しばら)く歓楽せよ
不開口笑是痴人 口を開いて笑わざるは是れ痴人
意訳:世の中の人は、かたつむりの角の上の小さく狭い所で、一体何を争おうとするのか。
火打ち石の火が発してすぐ消えてしまう、その一瞬の間に人はこの世に生きているようなものだ。
だから、金持ちは金持ちなりに、貧乏人は貧乏人なりに、分に応じて、まあまあしばらく楽しむべきである。
大きな口を開いて笑わない者はバカ者だよ。
現代はこのようにのんびりと笑うことはできそうにありませんが、笑うことは精神的にも身体的にもいいようです。
「笑いの頻度と1年後の認知機能との関連」
「笑いの頻度と1年後の認知機能との関連」についての調査があります。
それによると、「ほぼ毎日笑う人」と「ほとんど笑わない人」では、後者のほうが1年後の認知機能の低下が大きいという調査結果が出ているそうです。
しかし、「笑わなければ認知症になりやすい」ということではありませんので誤解なさらないように。
「1日100回の笑いが15分間のエアロビクスと同等の運動」
1日100回笑うと15分間のエアロビクスをしたのと同等の運動効果があるそうです。
1日15分笑うと40kcalの消費になり、これを毎日続けると、1年で2キロの脂肪が減る計算になります。
また、「微笑み」や「笑顔」は脳をリラックスさせますが、意識的に声を出して笑うほうが脳だけでなく全身に与える運動効果が高いのだそうです。
「笑いの効果」
・よく笑うと、腹筋や横隔膜が鍛えられて、便通が良くなる。
・笑うと、ストレス解消になり、便秘や胃腸の痛みなどが、改善される。精神的な癒しの効果もある。
・笑いでストレスが解消されると、血圧も低下し、心臓病などのリスクを軽減される。
・よく笑うことで体の筋肉を使い、心地よい疲れと精神的なリラックスでよく眠れるようになる。
・腹の底から笑いは腹式呼吸の一種で、老廃物を身体の外へ排出し、血の巡りを良くするので、脳梗塞などのリスクも軽減される。
・リウマチなどの病気の回復にも効果があるといわれている。
・腫瘍細胞(がん細胞など)を破壊することができ、腫瘍が発生するのを防御する働きがあるNK細胞が増えるといわれている。
・笑いによって血糖値が低下し、糖尿病にも効果があるといわれている。
・笑うことで、ホルモンのバランスが良くなり肌がキレイになる。
なお、笑は心からの「笑い」でなくても、心身に与える影響には大差ないそうです。
諺に「笑いにまさる良薬なし」とあるように、 「笑い」はストレスを解消し、生活習慣病を予防し、病気を遠ざける「良薬」といえそうです。
先日、大阪府の松井一郎知事は2025年の国際博覧会(万博)誘致を目指す意向を示しました。
5年に1度の万博は、博覧会国際事務局(BIE)の承認を得て開催されますが、2025年開催を目指す場合、2016年~19年が立候補を表明できる期間となります。
正式表明については、地元での開催意義やテーマ、会場などの地元基本構想を策定し、国へ提案するという手順が必要となり、国は構想を受けて、国家プロジェクトとして適切かどうかを検討した上で、閣議了解を得て立候補の運びとなりますが、地元の経済界は、多大な費用負担などを懸念して機運は盛り上がっていないようです。
知事が誘致の意向を示した背景には、東京オリンピック後の経済活性化策の一つであることと、昨年9月11日にパリのBIEを訪れてロセルタレス事務局長と面談した際、大阪での万博構想について「大阪は健康をテーマに打ち出していけばいい。これまでにないテーマだ」と評価を受けたことがあるようです。
更に、パリやオランダのロッテルダム、イギリスのロンドンやカナダのトロントなどのライバル都市があることについても、「日本には一度決めたら目的に向かって一丸となって進んでいく、他の国にはない性質がある」と絶賛された事も加わり、その上で、松井知事は万博のテーマは「超高齢化社会」を軸とするのが望ましいとの認識を示してきています。
ところで、万博と言えば昭和45年(1970年)に大阪で開かれた大阪万博があります。
この時期の日本は高度成長第二期のど真ん中であり、ベースアップは毎年の恒例行事、現在のような非正規社員とか、待機児童などの問題はなく、右肩上がりのよき時代でした。
この大阪万博を祝ってできた曲が三波春夫が歌った万国博覧会音頭、「世界の国からこんにちは」です。
松井知事が目指す二度目の大阪での万博誘致が成功するように、今日は万博音頭「世界の国からこんにちは」をお聴き頂きたいと思います。
「世界の国からこんにちは(万国博覧会音頭)」・・・唄:三波春夫
三波春夫さんが亡くなって15年になりますが、今日ご紹介するこの曲は2000年3月12日(日)に大阪の万博記念公園で行われたAMラジオの公開生放送イベントに三波春夫さんがゲストとして出演されて「太陽の塔」の前で歌われたものです。
因みにこの日のラジオ番組で司会をされているのは声からもお分かりになる通り浪花のモーツァルトこと作曲家のキダ・タローさんです。
足がつる
夜寝ている間に足がつり、筋肉の収縮する痛みで目を覚ましたという経験はありませんか?
私はたまにつる時がありますが、堪らない痛さに見舞われますよね。
そこで今日は寝ている間に足がつる原因を調べる事にしました。
足がつるのは『筋クランプ』と言って、激しい運動をしたり筋肉が疲労した時に起こる、所謂こむら返りのことで、不随意の局所的かつ突発性に骨格筋の筋収縮を起こすものだそうです。
たまに起こるのは心配ありませんが、頻繁に足がつる場合、疲労以外に原因がある場合もあるので、気をつける必要があるようです。
足がつる原因の一つは、発汗や冷えによる血流の低下だと言われています。
特に睡眠中は血行不良になりやすいため、足がつるリスクが高まると言われており、夏場に冷房をつけっぱなしで寝たり布団をかけずに寝たりすると、筋肉が冷えて血行不良になり、筋肉が収縮しやすくなって足がつりやすくなるそうです。
また、加齢により全身の筋肉量が減ることによって運動能力が下がり、下半身の血流も低下することからビタミン・ミネラルなどの栄養分の補給が上手くいかなくなり、それほど運動をしていなくても筋肉に疲労が生じて睡眠中に足がつるリスクが高まるようです。
従って、寝ている間に足がつりやすいという人は、まずは筋力の低下を抑えるようにして欲しいということです。
他の要因としては、病気が潜んでいるケースも考えられるそうです。
慢性的に足がつる場合、筋肉疲労や血行不良以外に例えば、糖尿病や副甲状腺機能低下症、甲状腺機能低下症と言った内分泌疾患によるものや、脳梗塞、脳腫瘍、脊柱管狭窄症や閉塞性動脈硬化症といった病気などが考えられるそうです。
また、腰痛や椎間板ヘルニアが原因で足がつることもあるようなので、足が頻繁につる場合には病院で検査をしてもらい、治療の必要があれば受けた方がよいと言うことです。
なお、スポーツをしていて、つりそうかなと思ったら、できるだけ筋肉を冷やさず、水分を補給したり、テーピングをするのが良い予防法だそうですが、もし足がつってしまった時は、膝を伸ばしながら足の親指を強く引っ張り、ふくらはぎを伸ばすと少しは楽になるということです。
一昨日行われたリオ・オリンピック代表選手選考競技会を兼ねた名古屋ウィメンズマラソンで、田中智美選手が日本人トップの2位に入り、オリンピックの代表をほぼ手中にしました。
彼女はレース後に、「誰よりリオに行きたい気持ちは強かった。絶対勝てると思った」と話していましたが、それを物語るように37キロ付近から3位の小原選手と白熱したレースを展開し、ナゴヤドームまで接戦を繰り広げました。
気力で僅かに勝ったのでしょうか、田中選手がゴール直前でリードし、僅か1秒差でゴールインしてオリンピックの出場切符をほぼ手にしたものです。
このレースでは、二人とも力を絞り尽くしたのがよくわかりました。
1秒差で小原選手を振り切った田中選手は、ゴール後目を潤ませる山下佐知子監督の姿を見ると、一気にうれし涙があふれ出てきていましたが、その一方で、1秒差に敗れた小原選手はトラックに崩れ落ち、こちらは悔し涙を噛みしめていました。
今回、目標としていたオリンピックへの切符を手中にした田中選手もまた2年前には悔しい思いをしていたようです。
2014年横浜国際女子マラソンで優勝しながらの、有力視された2015年の北京世界陸上代表に落選したのです。
この時、彼女は座右の銘としている、「疾風に勁草(けいそう)を知る」の言葉を胸に刻み、再起を誓ったそうです。
「疾風」とは、速く激しく吹く風。「勁草(けいそう)」とは、風雪に耐える強い草のことです。
強い風が吹いたときに初めて、それに負けない強い草を見分けることができることから、困難に遭ってはじめてその人間の本当の価値、本当の強さが分かるということ。 困難がその人間の奥底に秘める意志や信念の堅固さを見分けるという意味になります。
この故事の由来は、『後漢書・王覇伝(おうはでん)』に「子独り留まりて努力す、疾風に勁草を知る」に基づきます。
後漢の光武帝が初めて義兵を挙げたとき、旗色が悪くなってくると帝に従っていた者たちは逃亡していき、最後まで残ったのは王覇だけでした。
光武帝(劉秀)は王霸に、「穎川以来従っているのはお前だけになってしまった。疾風、勁草を知るだな。」と語ったのでした。
1秒差で泣いた小原選手、今度は彼女に「疾風に勁草(けいそう)を知」ってもらい、二人で日本の女子マラソン界を引っ張って行って欲しいものです。
「日本死ね」の過激表現ブログが話題になっています。
このブログは2016年2月15日、「はてな匿名ダイアリー」に投稿されたもので、14日に子供が入所選考に落ちた、と打ち明け、「保育園落ちた日本死ね!!!」と題して怒りをぶちまけているものです。
報道によると、発端となったブログには「日本死ね!」というフレーズを筆頭に、強い怒りと憤りの感情が前面に押し出された言葉が並んでいます。
「何が少子化だよクソ」「ふざけんな日本」「私活躍出来ねーじゃねーか」-。
そして、親の希望通り保育所に子供を預けられないなら「子供産むやつなんかいねーよ」と吐き捨てつつ、東京五輪なども引きあいに、とにかく財源を作って「保育所増やせ」と政府に迫っているのです。
「不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園ふやせよ」と、最近の安倍内閣の閣僚や自民党所属議員の不祥事にも触れています。
これに対し、ツイッター上には「母親のくせに言葉が悪い」「言葉は選ぶべきだ」といった反応も多く寄せられており、中には、「このような言動をしてるから(保育所に)落とされた」などの批判もあったそうです。
このブログの件は国会の場でも取り上げられ、野党が攻勢を強めているようです。
民主党の加藤敏幸参院国会対策委員長は「感じが悪い。それはないだろう」と批判し、共産党の小池晃政策委員長は首相が保育所と保健所を間違えたことについて、「お疲れかもしれないが、苦労した人の声に耳を傾けていれば間違うことはない」と皮肉っています。
一方、自民党は11日、待機児童問題への対処が後手に回ったことで、対策を検討する特命チームを新たに設置しました。
子どもが保育園に入れず国への不満をつづった匿名のブログが、野党による政権批判の材料になっていることに対応するもので、月内に緊急対策をとりまとめ、政府に提言するということです。
ただ、「待機児童問題」について、政府もただ手をこまねいていた訳ではありません。
2013年4月には、2014年度末までに保育所の定員を20万人分、その後3年間でさらに20万人分増やし2017年度末までに待機児童ゼロを目指す「待機児童解消加速化プラン」を発表しており、2015年9月に厚生労働省が公表した資料によると、実際、2013年、2014年の2年間で目標値を超えるおよそ21万人の受け皿が新たに確保されているのです。
しかし、これを受けて、潜在していた待機児童が表面化したことから、2015年は保育所申込者数が前年度より大幅に増加し、5年ぶりに待機児童数が増えてしまったということです。
過激ブログを書き込んだ東京都内の30代の女性は、ブログが国会の場でも取り上げられる事態になり、「たまに知り合いにこの話をされると、どきっとしてしまう。正直、反応の大きさに驚いている」。今も、周囲には自分が書いた文章だということは打ち明けていない、と報道されています。
(参考)
投稿された過激ブログです。
「保育園落ちた日本死ね!!!」
「何なんだよ日本。」 「一億総活躍社会じゃねーのかよ。」「昨日見事に保育園落ちたわ。」「どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。」
「子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?」「何が少子化だよクソ。」
「子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。」
「不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。」
「オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。」「エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。」「有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。」
「どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。」「ふざけんな日本。」「保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。」
「保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。」
「国が子供産ませないでどうすんだよ。」「金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。」
「不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。」「まじいい加減にしろ日本」
今月5日から4日間、日中の最高気温が20度を超えるという温かい日が続いたことから、鉢植のサクランボが一気に開花しました。
このサクランボは「暖地(桜桃:おうとう)」という品種です。
花がきれいなことや1本の木で結実することなどから家庭果樹として人気があり、我が家では8年前から鉢植え栽培しています。
ソメイヨシノより2~3週間早く開花するので、我が家では毎年ひと足早く小さなお花見を楽しんでいます。
・ほぼ満開となった「暖地サクランボ」です。
顔を近づけると仄かに芳香が漂います。
5月初旬には真っ赤なサクランボが実ります。
逆境
梅の花便りは終わりをつげたようですが、梅の花が咲くといつもこの和歌を思いだします。
「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花、主(あるじ)なしとて春を忘るな」・・・菅原道真(拾遺和歌集)
意訳:「春の風が吹いたら梅の花よ、お前の香りを送ってよこしておくれ。主人がいないからといって、春を忘れたらいけないよ」。
この和歌は、延暦元年(西暦901年)2月1日、菅原道真公が京の都を離れ、遠く九州の大宰府へ旅立つ日に庭の梅との別れを惜しんで詠んだ歌とされます。
一般によく知られているように、道真公のこの人事は左遷であり、思わぬ逆境に立たされた格好になったことから、自らの逆境を梅に託したようだとも言われています。
逆境と言えば、人は誰だって花のように咲き誇る時もあれば、人生の悲哀を味わうこともあります。順境もあれば、逆境もあります。山もあれば谷もあります。それが人生なのです。
私のような年寄りは兎も角、若い人たちには春が来れば梅の花が咲くように、例えどんな境遇にあったとしても、くじけることなく、それぞれの花を咲かせて欲しいものです。
作家の城山三郎の随筆に、上海競馬のある騎手の話があります。
この騎手は中国人とスコットランド人との間の混血児であるため、これはという馬に乗せてもらえず、毎度のレースでどん尻続きでした。
ところが、彼はくさりもせず、むしろ逆転の発想で生きたのです。
「どん尻続きであることが素晴らしいことでした。私にはレースの全貌が見えたのです」と。
つまり、一番後ろから眺めることを重ねたおかげで、レース展開が読め、ライバル全員の行動がわかるようになった、というのです。
そうした彼を買う人も出てきて、ある時、いい馬に乗せてもらうと、十二レース中、十レースで優勝してしまい、英雄になりました。
そして、引退後は香港に移り、第二の人生もまた成功したと言います。
人生、不遇続きの中でもくじけることなく、何か心掛けてさえいれば、いつか、一直線に駆け抜ける日が来る、と綴っています。
高校や大学入試で志望校に入れた人、入れなかった人、或いは就職で希望する企業に入れた人、そうでない人、組織内の昇進レースに勝った人、レースを諦めた人など、様々な人たちがいると思います。
春は人生の岐路に立つ場面が多い季節でもあります。
順境なら言うことはありませんが、そうはいかないことも多々あります。
思い通りにならなかった時、所謂、逆境の時にこそ素晴らしい花を咲かせるチャンスがあるのです。
若い人たち、或いは遅れをとった人たちには、そう信じて新しい第一歩を踏み出して欲しいものです。