昨日のテレビ放送は、午前8時から始まったアメリカ大統領選挙の開票速報一色でした。
途中経過でトランプ氏がリードしたり、クリントン氏が盛り返すなど、追いつ抜かれつしながら競っていましたが、夕方になって、共和党のトランプ氏が当選確実となり、最終的に第45代大統領に選ばれ、来年1月に就任することになりました。
政治家として公職に就いた事がなく、軍人の経験もないトランプ氏が事前予想に反しての大逆転劇で大統領に選ばれた事は世界を驚かせました。
日本にも厳しい要求が求められていることから、今後の日米関係、安倍首相の対米外交が気になるところです。
さて、政治を行うにしても、企業を経営するにしても優秀な人材が必要となります。
優秀な人材を育てるには教育環境が整っていなければなりません。
日本では江戸時代に教育に熱心な藩主がいました。
そこで、昨日に続いて岡山藩主池田光政が創建した閑谷学校について取り上げます。
昨日ご紹介した岡山県にある旧閑谷学校は、現存する庶民のための学校としては世界最古といわれています。
教育の範囲を庶民層に広げ、日本の教育水準を大きく高めたことが評価され、2015年4月には「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」として日本遺産に認定されていますが、この旧閑谷学校を創建したのが岡山藩主池田光政です。
閑谷学校には、高山彦九郎や頼山陽、大塩平八郎、横井小楠などの儒学文人も来遊しており、少年時代の大鳥圭介など藩外からの来学もあったと記されています。
今日は閑谷学校にゆかりのある数人をご紹介します。
「池田光政(1609年~1682年)」
池田光政は慶長14年(1609年)姫路藩主池田利隆の嫡子として岡山に生まれました。
元和2年(1616年)父利隆没後、姫路藩主を継ぐも年少を理由に鳥取に移封されます。
寛永9年(1632年)伯父である岡山藩主池田忠雄が死去し、岡山藩主となりました。
儒学における仁政(じんせい:情け深い政治)の実現を目指し、陽明学者 熊沢蕃山や津田永忠を重用し、飢民救済や新田開発、藩政改革などにより岡山藩の基礎を固めました。
また寛文6年(1666年)藩士子弟のために石山仮学館、寛文8年(1668年)庶民のために領内に123か所の郡中手習所を、寛文10年(1670年)閑谷学校を建設するなど領民の教化に情熱を注ぎ、天和2年(1682年)に没しました。
「熊沢蕃山(1619-1691)」
江戸時代前期の儒者で、元和5年京都に生まれました。
中江藤樹(とうじゅ)に陽明学を学び,備前岡山藩主池田光政に仕え、治水,救民などに治績をあげ,明暦3年39歳で隠退します。
のち京都に移りますが、有名になるにつれ中傷も激化し,諸国を転住します。
著作「大学或問(わくもん)」で幕政を批判したとして下総古河(現茨城県)に禁固となり,元禄4年8月17日に73歳で死去しました。
「山田方谷(1805年~1877年)」
山田方谷(やまだほうこく)は幕末・明治の政治家、教育者で、文化2年(1805年)現岡山県高梁市に生まれました。
5歳で新見藩(岡山県)の丸川松隠に儒学を学び、神童と称されるほど優秀だったそうです。
文政8年(1825年)松山藩士(現岡山県高梁市)となり、同12年(1829年)には藩校有終館会頭(教頭)、その後京都や江戸に遊学し、天保7年(1836年)の帰藩後は有終館学頭(校長)となりました。
また、藩主板倉勝静の命を受けた藩政改革を成功させ、勝静(かつきよ)が老中首座として幕府の政治を担当するとその顧問として活躍します。
明治元年(1868年)松山城を無血開城させた後は、長瀬塾(岡山県高梁市)や刑部塾(大佐町)を開いて子弟の教育に専念し、備中聖人と称せられたそうです。
幕末から明治にかけて活躍した三島中州、河井継之助らを育て、明治10年(1877年)に没しています。
「大鳥圭介(1832年~1911年)」
大鳥圭介公は、江戸時代末、飢饉と様々な病気の続く天保3年(1832年)に、赤穂郡細念村小字石戸(現在の上郡岩木石戸地区)に医業を営む大鳥直輔の長男として生まれました。
幼い時はやんちゃで、ガキ大将でしたが、医者兼漢学者の祖父純平の薫陶を受け、学問を志しました。
岡山藩閑谷学校で5年間学び、祖父純平の様に漢学者になろうとしましたが、父のたっての願いで、赤穂の医師・中島意庵という西洋医の下で、二年間修業をしました。
これが契機となり導かれて大阪の適塾、次で江戸の大木塾、江川塾で学びかつ教え、ついには幕臣旗本となりました。
しかし、戊辰戦争で敗れ、二年半の間、入牢後、死罪を免れて明治新政府に仕えることとなりました。
出牢後は、英蘭仏語ができる事を生かし、日本の殖産興業に尽力、同時に日本を背負って立つ大勢の人材を育てました。
当時には珍しく八十の齢を重ね、今の日本の礎を築いたのでした。
所用のためブログの書き込みを休止していましたが、今日から再開しますのでよろしくお願いします。
さて、所用の帰りに、紅葉が美しいと言われる岡山県備前市にある「旧閑谷学校(きゅう しずたにがっこう)」を訪れました。
ここにある「楷の木(かいのき)」の紅葉は日本一美しいと言われていますが、私が訪れた時は、残念ながら紅葉には少し早く、日本一の紅葉は見られませんでした。
代わりに国宝に指定されている「旧閑谷学校」をご紹介します。
「旧閑谷学校」
旧閑谷学校は江戸時代前期の寛文10年(1670年)に岡山藩主池田光政によって創建された、現存する世界最古の庶民のための公立学校です。
藩主池田光政が初めて閑谷の地に来観した時、「山水清閑、宜しく読書講学すべき地」と称賛し、地方のリーダーを養成する学校の設立を決めたのだそうです。
この学校の永続を願う藩主の意を受けた家臣津田永忠は約30年かけて、元禄14年(1701年)に現在とほぼ同様の外観を持つ、堅固で壮麗な学校を完成させました。
閑谷学校の名声は古くから天下に聞こえていたようで、高山彦九郎や頼山陽、大塩平八郎、横井小楠などの儒学文人も来遊しており、少年時代の大鳥圭介など藩外からの来学もあったと記されています。
・正面が講堂、その左に続いている建物は飲室、右の紅葉している木は「楷(かい)の木」、そしてその右の建物は校門です。
「校門」
閑谷学校の正門で「鶴鳴門」(重要文化財)とも呼ばれており、泮池の石橋と聖廟を結ぶ中間に位置しています。
屋根は備前焼の本瓦葺き、棟に鯱を載せた正門です。
「講堂」
講堂は学問の殿堂です。旧閑谷学校を代表する建物で国宝に指定されています。
入母屋造り、しころ葺きの大屋根と火灯窓が壮重な独特の外観を形作っています。
創建当時は「茅葺き」でしたが、その後改築され現在の堅牢な「備前焼瓦」に葺き替えられました。
「講堂内部」
内部は十本の欅の丸柱で支えた内室と、その四方を囲む入側とで構成されています。
また、拭き漆の床は生徒たちによってよく磨かれており、火灯窓から入る光をやわらかく反射させています。
・国宝に指定されている講堂の内部です。
「楷(かい)の木」
四季を通して情緒豊かな「学問の木」です。
聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り、苗に育てられた内の2本です。
紅葉の季節には美しく色づく楷の木を見ることができますが、今回は少し早かったようです。
・左は紅葉した「楷の木(かいのき)」です。
「石塀(せきへい)」
この石塀は300年を経て今も整然たる姿をたたえています。
学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀は、備前焼瓦と並んで、旧閑谷学校に独特の景観を生み出しています。
「火除山」
正面の小高い芝生の丘は「火除山」といって、この奥にある学舎や学寮から火災が発生しても講堂に及ばないように人工的に造成されたものです。
国宝や重要文化財は全てこの丘の手前に位置しています。
「閑谷神社」
閑谷神社は閑谷学校の創始者、池田光政を祀っています。
もとは「東御堂」、または光政の謚をとって「芳烈祠(ほうれつし)」と呼ばれていました。
本殿内には御神体として光政の座像が安置されています。
「聖廟」
聖廟は儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設です。
孔子廟、西御堂とも呼ばれ、最も重要な施設として中央の一番高い所に配されています。
奥の大成殿には孔子像が安置され、毎年10月には儒学の祖、孔子の徳を称える「釈菜(せきさい)」の儀式が行われます。