写真は前にも紹介した徳川家連枝時代の会津大名庭園の茶亭。
あまりにも華奢な印象だったのですが、
写真を眺めていて、その基礎の作られようを再確認して、
「よくもまぁ、これで・・・」とため息が出ました。
この建物は、藩主の接待用だったそうなのですが、
新築されてから、何回か、修理されてきている記録が残っているそうです。
この写真を見れば、さもありなんと、理解できます。
左側の写真を見ると、大きく開口させている様子がわかります。
池に向かって眺望を開いているので、当然。
壁はほとんど見あたらず、全部開放させた作りですね。
それに対して、屋根は重厚な茅葺き。冬期には積雪も多い。
そういう加重をすべて受け止める基礎が、
束石で、点で、受け止めているだけ。
このあたり、たぶん、日本的な情緒建築文化性のみを優先させていますね。
冬場に、この建物を使うためには、そうとうの準備が必要だったろうと思います。
というか、よく考えればそれは無理だったのでしょう。
危険を考えれば、屋根雪はまず、人力で落としておかなければならなかっただろうし、
ガラスの建具もない時代であれば、障子と板戸だけの建具で
室内環境を、温度を確保するためには、
さて、いったい、どうやったのでしょうか?
こういう建築が、会津に遺されていたというのが、やはり不思議。
考え方としては、別荘的な考えで、
夏場のみの使用と、割り切っていたものなのでしょうね。
冬場に寒々しい池の山水を眺めても、風流ではないし、というところか。
確かに、北海道でも、そういう考えがちょっと前、
ほんの20年くらいさかのぼれば、そうだったとも言える。
高温多湿の夏の訪れを心待ちする北国人の意識のなかで
こういう建築の意味合いも、そういうものだったのでしょうね。
日本の建築文化に、寒冷地仕様という概念を
きちんと植え込んでいくというのは、なかなか大変な作業ですね。
つくづく、実感させられます。
北海道から始まった建築の防寒技術の進展のなかで、
こういうふうな建築の持つ開放的なコンセプトを
暖かい冬場の室内環境を実現させながら、追求しているのが、
現在時点だ、ということなのだと思います。
冬場でも、猛吹雪の中でも、それすら楽しめるレベルの性能を
いまでは、庶民レベルの住宅で実現できつつある、ということですね。