三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

国立博物館

2006年10月17日 05時39分26秒 | Weblog

きのうは、すっかりいじけたようなブログの書き方になって、
反省いたしております。
写真は、昨日も触れました、上野の国立博物館常設展示の土偶です。
まじまじと見ることができた上に、写真撮影してもよい、ということでした。
ということで、謹んで撮影いたしました。
にしても、凄い迫力です。
こういう生命力そのものの造形を、縄文の日本人は生み出していたのですね。
これがいったい何をあらわし、なにを訴えたかったものであるのか、
それは不明であり、なぞのままなのでしょうが、
そういうことはあまり関係がありませんね。
縄文の日本というのは、世界でも有数の豊かな環境であった、
という説が最近、たいへん有力になってきています。
あまりにもその暮らしぶりが心地よいものだったので、
ながく、その最適地、関東から東北・北海道は、
西日本地域とは別の社会を形成してきたのだ、という説です。
もっといえば、この列島にはいくつかの社会が形成され、
その後、日本国家を形成した弥生の日本と、
縄文的な価値観をふかく残してきた関東圏、
さらに、北方で蝦夷としてながく同化を拒んできた地域と、
南方で、荒々しく剽悍な生活文化様式を持っていた九州南部の社会というように
別れた価値観が併存してきたのが、ベーシックな歴史だという考えもあります。

基本的に東西の社会は明確に別れて発展してきたのは間違いがありません。
たまたま、ヤマト朝廷のスタイルが東アジア世界のなかでの
この列島の生存手段として、選択されてきたというのが実体に近いのではないか。
きのうもふれたように、仏教がヤマト政権によって、アジア世界から導入され、
しかしそれが東国的な価値観と巡り会って、
さまざまな日本独自のかたちに変化していった、
というプロセスが明確に見える気がいたします。
なぜ、ヤマト政権が仏教を導入したのか、というのが
大変面白いのだけれど、やはり外圧というものが基本因子だったのではないかと。
中国にどんどんと強大な軍事力を持つ国家が形成され、
漢字を中心とする文明が進化していくことが、
地域的にその強い影響を受けざるを得ないこの列島社会に
自然に外圧として働いてきた結果なのでしょうか。

たとえば戦後日本が導入した「民主主義社会」というものと
この仏教の日本導入という現象は比肩しうるようなことであったのかも知れません。
そのときの権力、ちょうど自民党保守権力と、
聖徳太子を中心としたヤマト政権とは似たような政策を行ったのかも知れません。
って、ちょっと類推飛躍が行き過ぎかなぁ(笑)。
でも、わかりやすく解釈すれば、そんなところなのかも知れません。

あ、土偶の写真なんですけれど、
ついつい、そういった悠久な思念を思わず思い起こさせるような、
そういう強いインパクトが、対面することで感じられた次第。
調べてみたら、国立博物館って、
およそ、日本と列島社会にとっての基本的な遺産が、
それこそ、すべてといっていいくらい集中して保存されているのですね。
こりゃぁ、何ヶ月も滞在しても、見尽くすことが不可能なくらい、
いろいろな歴史の証拠物件を発見できるでしょう。
死ぬまでに、どれくらい目にし、
さまざまな古人の思いを追体験できるか、わくわくしてきました。
これからも、浸り尽くす時間を味わいたいと思いました。

にしても、東京にいる人たちはいいよなぁ・・・はぁ。
コメント
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