こういうタイプの美しさというのはなんと表現すべきなんでしょうか?
ご覧いただいた写真は、先日の正法寺の「惣門」の様子です。
禅寺の結界入り口を建築的に表現しているわけです。
踏み石の高さはけっこうありまして、
登るのに子どもなどでは足の跨ぎ高さを超えるのではないか、というほど。
かなりきつい勾配もあって、まさに俗世との隔絶を意識させます。
というか、ここに至るまでの道のりも、
いまでこそ、自動車の道路がありましたから、街から15分くらいなのですが、
途中はなだらかながら、登り勾配の山道が続きます。
昔であれば、相当の歩き時間が掛かっただろうと推測できます。
その道中を抜けてきて、この門にたどりつくのですね。
このお寺の本堂のすばらしい茅葺き屋根の美しさは、
ここからはまだ、はっきりとは見ることはできません。
木立越しに見え隠れする、というような次第に期待が高まるという場面。
この山門を通り抜けて初めて、
視界一杯に、カタルシスのように素晴らしい本堂建築が人々を迎えるのです。
そういう意味では、ここではあえて視線を遮るように高低差が
建築的に仕掛けられている、とも言えると思います。
そのような意味合いを持っている山門の建築装置なのですが、
この独特の、石段と門が織りなす視覚的ハーモニーも格別。
自然石の荒々しさが、ここから始まる精神世界を暗示させるのでしょうね。
歴史的に言えば、古代の律令制国家が破綻して、
自主独立的な開拓農場主の立場に基盤をもつ関東武家政権が成立し、
そういう武家が好んで信仰を寄せたのが、禅宗。
こういう山門のデザインも、そういう時代精神を表現しているのでしょう。
なにごとかに、正面から立ち向かい、自力での乗りこえを目指すような
そういう精神性を感じさせてくれると思います。
はるかに時間を超えて、遺された建築が、
見るものに伝えてくれるものなのだと思います。
やはり建築の力というのは、ある、と思える瞬間ですね。