最近、ある人から、お微行で高位の方が自宅に来られる機会があって、
というお話を聞く機会がありました。
接待、ということの究極的な体験を語られたのです。
そんなとき、いつも思い起こす事件が
利休の賜死に連なったとされる茶での秀吉との一件。
ときの軍事的最高権力者と
2畳の茶室で向き合って、接待するという
白刃の上で踊るような体験についてです。
かれ、利休の所有する茶室空間で
一面の朝顔世界の美しさが貴顕の間で話題になり、
秀吉も、そのアサガオの群生をぜひ見たいと所望した。
このとき「アサガオが見たい」と、たぶん伝えられたのだと思います。
「アサガオの群生が見たい」、ではなかったのでしょう。
このことは、秀吉の官僚群からの伝達という形ではなかったのかと想像されます。
まぁ一種の誤解が存在したのは間違いないでしょう。
天下人からの所望であり、しかし一方でかれは
茶人として、秀吉の宗匠でもある立場。
芸術家としての矜持も気位高く存在し、その表現も当然求めた。
そこで、秀吉来訪のその朝、
かれは、アサガオを全部切り落としてしまう。
「アサガオが見たい」と希望してきた秀吉は
一面、色のない緑一色のアサガオの小道を抜けて
茶室にたどりつく。
にじり口を抜けて、入った茶室の落とし掛けにか、
一輪のアサガオが活けられている。
となっていたか、あるいは
部屋一杯にアサガオが切り取られて活けられていたか、
いくつかの説があるそうです。
そういった演出に、利休は芸術表現を掛けたのでしょうね。
こういう表現が、
黄金の茶室とか、贅を尽くした趣味世界観を持つ
秀吉に対する冒涜と受け取られたのが、ことの次第だっただろうと思います。
心的世界を相手にする場合、常にこうしたあやうさはありえるのでしょう。
しかし、室町末期・安土桃山から江戸初期に掛けての
京都の文化世界というのは
すさまじい世界を作り出していたものだと思わざるを得ません。
茶の湯は、「茶の間」という言葉を日本語に定着させるほどに
日本人に愛される文化になっていくのですが、
その草創期に、利休のような死に様が存在したことで、
より、その権威性が高まったということは言えると思います。
なかなか、評価というのは難しいと思わざるを得ませんね。
<写真は、旭川で見かけた茶室>
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