ことしはじめて白川郷や飛騨高山を見学して来ました。
長年の懸案だったので、大きな余韻に包まれております。
で、一番考えたのが、表題のようなことです。
飛騨の工~たくみ~という言葉は、
律令国家体制が全国に施行されていった時期において、
飛騨地方は税として納めるべきコメや農業生産物に乏しかったので、
その代替として、建築技術を持つ人々を10戸に1人の割合で
「首都建設」のために労役に差し出した、というのがきっかけだったとされています。
その結果、奈良の巨大建築群が造営され、その事跡に於いて
名工の集団であると日本国家社会で大いに名を上げたということ。
農業生産が活発ではなく、木造技術は栄えていた。
ということは、どういうことを表しているのだろうか、と想像力が膨らんでいきますね。
で、その前の大型木造建築というように考えると、
出雲大社であるとか、三内丸山であるとか、が浮かんできます。
三内丸山は明瞭に5000~6000年前というように時代特定されている。
出雲大社は、神話と現実の領域の境界がハッキリしていない。
そうすると、奈良と三内丸山が巨大木造で線が繋がる。
三内丸山は、縄文人たちの構築した巨大木造遺構。
縄文人は、海での漁労や動物の狩猟と同時に
クリのDNAが同じだったということからもわかるように、
植物の栽培、採集を社会生活の基本とした「森の民」。
鉄器の発明以前だから、石器の斧などで直径1mにもなるクリの木を切り倒して
しかも、底部を焼却処理して防腐を施した上で、
6本の掘っ立て柱を立ち上げる技術を持っていた。
遺跡からはなお、「夏の家」と目される高床式建築も推定されている。
そして飛騨高山も四方を森に囲まれた地域。
そこで暮らしていた民人が、「飛騨の工」と称されていったのだとすれば、
縄文から連なる「木造技術」のリンケージが想定されるのはムリがないと思える。
式年遷宮の伊勢神宮も、今回が62回ということは掛ける20で、1220年前からの伝統。
その木造技術の伝承に掛けた知恵を見るとき、
DNA的なつながりをそこに見出すのも、不自然ではないだろうと思います。
わたしは、建築や住宅についてのジャーナリズムの人間なので、
学者さんのように厳密な論理構築、実証が出来るわけではないのですが、
こんな推論に基づいて、またいろいろ調べていきたいと思うのです。