いわゆる絵画を中心とする、それも抽象こそが本筋である、
みたいな「視覚文化」での決めつけというものが存在していたように思う。
それもキャンバスに描かれているもので、
西洋絵画を優位に置くというような考え方。
絶対に理解出来ないキリスト教的な宗教画をありがたがるみたいな。
たぶん、そういう考え方って、
わたしたち60代前半くらいの年代には根強く存在する。
そんなふうな考え方が,教える側にも強く存在していた気がする。
絵描きになるのなら、パリに行かなければ本物とは言えない、みたいな。
人生も長く生き続けてきて、
感動する対象って、そういった「刷り込み」とはまったく関係がない、
ということを深く感じさせられている。
きのうは、対比的な美術鑑賞、
建築家、ル・コルビジェの絵画美術と日本の伝統的な絵画、
金屏風に描かれた「洛中洛外図屏風」を両方、見てきた。
比較するまでもなく、ル・コルビジェの絵画にはまったく興味が湧かなかった。
まったく見事になんにも感じないのだ。
ピカソの亜流にしか見えなかった。
美術なんだから、面白いかどうかって、一番のリトマス試験紙。
一方の「洛中洛外図屏風」は、
そこに描かれた世界の空気感がただよってきて、
こころがうたれまくってたまらない。
それは民族的なものなのか、DNA的なものなのか、わからないけれど、
やはりそこに描かれている人間性に、深く惹かれているということだと思う。
ある時代の京都の街がもっていた、たっぷりと鮮烈な空気感が立ち上るものには
抗いがたい共感が広がってくる。
そして実に多くのひとびとの、生き様の一瞬がみごとに伝わってくる。
花見の帰り道、橋の上で乱舞する若い娘たちのはなやぎ。
その豊穣感は、まさに「洛中洛外図屏風」の醍醐味。
それが実に彩り豊かに、極彩色で描かれている。
まさに「巨大な群衆劇」のあざやかさに全身が包まれてくる。
デジタル技術で、巨大スクリーンに投影されるその美は、
まさに日本文化そのものの感受性を余すところなく伝えてくれている。
また、龍安寺石庭の四季変化を巨大スクリーンで一服の山水画として
デジタルを駆使して創造したビジュアルもまた、わかりやすい。
やはりこっちに深く癒される、ということは
もう、ハッキリ認めていいのではないか。
良く理解出来ない個人主義の押しつけ的な「美術」をありがたがって
盲従する必要はないのではないか。
そんなやや傾斜したような考え方が、こころに広がるのを抑えられませんでした。