三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【宗教が担った日本的「公共」空間性】

2016年10月22日 11時06分21秒 | Weblog
ピリッとした寒さは残っていますが、
札幌はきのうは穏やかな1日でした。
予測通り、寒気は一過性だったようです。
紅葉の盛りはいつころだろうか、と考える間もない冬将軍さま、
ではありましたが、もう少しは間があると思われます。
写真は、一昨日触れた妙経寺の本堂周辺。
立派な「迎え松」や、こんもりとした立木など、
このお寺は専門の「庭師」さんが手を込めた作庭が行われている様子。
日本の場合、こういった宗教施設は
ある宗教的教授という目的はもちろんそれぞれで持っていたにせよ、
押し並べて、地域の中で「公共的空間」性を歴史的に日本人に感覚させてきた。
神社の場合には、地域社会の「鎮守の森」という言葉まであった。
そこには、醸し出していた「公共性」の方に力点があると思う。
現代では「政教分離」が社会の基盤意識になっていますが、
東日本大震災のあと、集団移転の社会復元段階になって、
それまで宗教施設が担っていたこうした「公共性」を無視する結果、
「社会復元」に大きな困難が立ちはだかっている現実もある。

都市や社会の成り立ちというのは国によって違いがあるでしょうが、
ことし隣国・韓国に行く機会があってかの国には、
宗教的なパブリック空間というものがないと当社の韓国人スタッフに聞きました。
中国でも、いわゆる公園というものはあるけれど、
宗教由来の「公共的空間」というのはあまり、その存在を聞かない。
なぜか、日本社会だけが特異的に東アジア世界の中で、
神道や、仏教などの神社仏閣がかくも盛大・多様に存続してきたのか、
いつもそんな不思議を感じ続けています。
韓国人スタッフと対話する最初に、なんとなく北海道神宮社域を
案内して、日本人的な精神性の基盤に話が及んだことがある。
仏教寺院の場合にも、各種の宗教建築が曼荼羅世界を表現するかのように
整然と伽藍配置される広大な寺域を形成していて、
多くの人間を収容する、公共的な空間を備えている。
西欧社会に普遍的な「広場」にも似た「公共性」をこれらに深く感じる。
たぶんそういった心理体験が積層している部分が日本人にはどうもある。
東アジア世界の中で、先導的に西欧社会の普遍性を受容したことの
大きな「起動力」が、こういった部分にあるのではと夢想しています。

さて、そろそろ年末も控える季節になって来て貴重な休日。
本日から、わが北海道日本ハムファイターズは、最終決戦突入。
ドラフトではまたライバル・ソフトバンクが利を得ましたが、
独自に培った「育成力」の面ではリーグの違いはあれライバルと言っていい
広島東洋カープとの頂上決戦であります。
主戦はご存知大谷クン。投打に存分にその力量を発揮して
みごとな活躍を目に焼き付けて欲しいものだと思います。
頑張れ、北海道日本ハムファイターズ!
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