三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

アメリカによる日韓「仲裁」か?

2013年11月10日 14時38分50秒 | Weblog


先日来触れている、東アジアでの日韓関係の緊張について
動きが出てきたようです。

「国際社会は日本を戦犯国と見なさず」
「集団的自衛権阻止は困難」韓国議会で討論―中国メディア
<Record China 11月9日(土)17時7分配信>
8日、中国網は記事「韓国官僚:日本が集団的自衛権を行使するかどうかが問題だ」
を掲載した。韓国世論の反発を招いている日本の集団的自衛権だが、
韓国外交部高官はその保有を阻止することは困難との見解を示した。
韓国・聯合ニュースによると、金奎顕(キム・ギュヒョン)第一次官は8日、
韓国国会東北アジア歴史歪曲対策特別委員会全体会議で、
「日本が集団的自衛権を保有するかどうかがではなく、
行使するかどうかが問題だ」と答弁した。
安倍政権は集団的自衛権解禁を目指した動きを続けているが、
韓国では朝鮮半島有事の際に自衛隊が韓国に
上陸しかねないと強い反発を招いている。
しかし10月25日には韓国政府高官が
「集団的自衛権は国連憲章に規定された権利」と発言するなど、
政府側からは日本の集団的自衛権保有そのものを阻止することは
難しいとの判断が示されていた。
金第一次官の発言も政府側見解に沿ったものとみられる。
米国も賛同していること、歴史問題にからめての批判も他国の理解を得ることは
難しいことを説明した上で、
「日本は集団的自衛権の行使にあたり周辺諸国の懸念を打ち消すべきだ」と主張。
朝鮮半島及び韓国の利益に関連する際には韓国側の同意が必要と訴えることで、
集団的自衛権の保有ではなく、行使のあり方について
日本と折衝していく方針を示している。
答弁を受け、野党からは金第一次官の発言は集団的自衛権保有を
認めているものではないかと反発する声があがった。
また、「日本は戦犯国なのか普通の国なのか」との質問もあったが、
金第一次官は国連憲章にはいわゆる敵国条項があるが現実に即したものではないとし、
日本もドイツも敗戦国だが、国際社会はそのように遇してはいないと回答した。
(翻訳・編集/KT)

というような動きが韓国国内で出てきた。
先般、韓国朴大統領に対してアメリカが特使を派遣して日韓関係について
懸念を表明したけれど、その後、韓国メディアに微妙な変化が見られ、
それと同時に、官僚組織トップと思われる人物からこのような発言が出た。
やはりアメリカは、同盟国に対してのコントロール手段としては、
このような「マスコミと官僚組織」を使うのが常套手段なのではないかと思われる。
こういった特使というのは、たぶん、事前にはまったくアナウンスがなく、
アメリカ政府が決定したら、すぐにその足で当該国のトップに連絡が入り、
すぐに会談がセッティングされるのだろうと思います。
そこで、アメリカの意志が明確に伝えられ、
それと同時にさまざまなチャンネルからアメリカの国家意志が発信され、
当該国での世論調整(操作)が発動するのではないかと推測します。
今回の事態は、ヨーロッパ歴訪中の朴大統領の現地での
不退転な「反日」の決意発言を踏まえて
その韓国権力の不在時に発動されたのかも知れません。
戦後あらゆる局面で、このような段取りで
日本もコントロールされてきたに違いない。
場合によっては、田中角栄のように権力中枢部に対しても
こういったアメリカの国家意志は貫徹されてくるのだと思います。
今回の日韓の緊張状態は、朝日などの大メディアはほとんど触れていないけれど、
戦後世界体制の中でも、かなりの変化に繋がる可能性がある動き。
どのように推移していくのか、注視しなければなりません。


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WEB通販と小売業

2013年11月09日 06時02分22秒 | Weblog


インターネット通販が好調のようだ。
同時に最近、高齢層のインターネット活用がどんどん進んでいるといわれる。
どうも消費行動にパソコンやインターネットが活用されることが増えて
人間の実体社会に大きな変化が生じてきているのだろう。
この変化はものすごく巨大なので、
巨視的に見渡していかないと見誤ったりする部分もありそうだ。
クロネコさんの配送での問題の発生などから見えてくるのは、
こういった事態の進行なのだと思う。

自分自身でも、最近、本を購入する情報は
ほとんどがインターネット経由のものが多い。
興味は持っていたけれど、あまりにもニッチな領域の興味だったので
これまではなかなか推論も、調査も個人ではできなかったことが、
Amazonのデータベースから吐き出される「情報」が多くのことを教えてくれるので
自分自身の知の探索が垂直方向に進展していく。
ある特定の歴史分野への集中的な興味を核にして
探索領域を広げていく作業なのだけれど、
むかし司馬遼太郎さんが歴史文学作品創作にとりかかると
大阪や東京神保町の古書店から関係書が消えていった、という話を聞いたが
似たようなことが、今の時代はインターネット通販がカバーしている。
きっと、こういう体験を多くの人がいま、されていると思う。

一方で小売業。
ヤマダ電機、営業赤字転落 ネット通販と消耗戦 “バブル”抜け出せず
拡大路線を突き進んできた家電量販店最大手のヤマダ電機が岐路に立たされている。7日発表した2013年9月中間連結決算は、売上高が前年同期比11.4%増の8975億円となったものの営業損益は213億円の黒字から23億円の赤字に転落した。
地上デジタル放送移行後の薄型テレビを中心とした販売不振に加え、インターネット通販との消耗戦を強いられ、不振が続く。6月には創業者の山田昇氏が社長に返り咲くなどテコ入れを図ったが、隘路(あいろ)の出口は見えていない。
というニュースが流れている。
同じ小売りでも、とくに家電のような商品は
インターネット通販に適しているものなのかも知れない。
これまでの「品定めしてから」という消費行動については
インターネットの活用で済ませられてしまって、
店頭では、確認だけくらいになってしまっている。
こういったユーザーの変化に対して、小売り側ができる分野はなにか、
その知恵と工夫が、まだ出来てきていないのが現状なのでしょう。
本当に市場の変化はすごいスピードですね・・・。

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戦後ドイツと日本、周辺国への対応

2013年11月08日 05時54分35秒 | Weblog



きのうの続きです。
日本国民としては、被侵略者の気持ちというのはなかなか理解はしにくい。
権力機構が教育していく以外に、こういうものは見えにくいのだろうと思います。
わたしは、昭和30~40年代に教育を受けた人間ですが、
そこで教えられたのは、アメリカによる占領を経て、
アメリカがこの国に刷り込んだ体制であり、
いわゆる「戦後民主主義」といわれる価値観を植え付けられてきた。
そしてこのことを、日本人は広範に率直に受け入れたのだと思う。
日本人の基本的な認識として、第2次世界大戦において
日本が敗北した相手国は主要にアメリカであって、
北方領土は別にしてそのアメリカによって、日本は一元的に占領支配された。
そして戦後日本は、アメリカの世界戦略に沿って歩み続けた。
ドイツは戦後、東西に分割され、また近隣諸国との関係、
イスラエル、ユダヤ民族に対しての「謝罪」を国家の基本外交姿勢として
一貫して欧州世界で生き続けてきた。
ナチス思想に対しては、それこそ徹底して明確にそれを禁じ、
繰り返し、そのことを近隣諸国、世界に対して宣言し続けてきた。
それに対して日本は、アメリカの世界戦略の中で対共産圏包囲網の
極東におけるもっとも肝要な国家存在として活かされてきた。
そのためにアメリカはこの国家を支配するためのマキアベリズムを発揮した。
天皇制とその周辺的な体制の護持によって、
円滑にこの日本という国家存在を利用することをアメリカは選択してきた。
ドイツではナチスが徹底的に根絶やしになったのに、
日本では、きわめて中途半端にしか、戦前との決別はされなかった。
あまつさえ、A級戦犯とされた人物すら靖国神社では「合祀」されている。
たぶん、韓国や中国との「歴史認識」の違いの最大なるものはこの点だろう。
韓国・中国にしてみれば、日本国家はナチスを否定しないドイツのような国だと
そのように主張したいのだろうと思う。
ドイツの戦前戦後の身の処し方がどうであったか、
それが実質的にどのようなものであったのか、
戦後日本社会ではほとんど興味を持たれることもなく過ごしてきて
いまとなってみても、国民一般レベルでは知る由もない状況にある。
アメリカの世界戦略のなかで戦後日本は大きな役割を果たし続け
またその軍事的な庇護の元で、奇跡的な経済復興を遂げ、
戦後日本社会は経済的繁栄を享受してきた。
そのアメリカ中心の世界体制のなかでは、極東での国家間関係は
基本的な「国家生き残り」に関係するものとも思われなかったのだ。
ドイツは確かに、戦後国際社会で生き延びていくために
自立的な国家生き残り戦略として、ナチスの侵略行為を繰り返し謝罪することでしか
世界のなかでの立ち位置を獲得できなかったのだ。
この違いが、周辺国との関係に大きく影響しているのだと思う。

しかしいまとなっては、
さかのぼって、選択することはできない。
戦後日本はこのような国家体制、国際感覚によって生きてきた実質を持っている。
アメリカは、この極東での国際関係について
自ら積極的に関与しようとは考えてもいないだろうと思う。
多少の痛痒は感じたとしても、それはあくまで日本と韓国・中国との
2国間関係にしか過ぎない、という立場だろうと思う。
相次いで惹起した島嶼の領有権問題へのアメリカの対応を見れば、
このことは明白だと思う。
さて日本はどうしていくべきなのか。
一番考えられる事態は、
ドイツのように振る舞えと声高に中韓両国は声を上げ続け、
徐々に日本国内には、この2カ国への反感感情が膨らんでいって
ある飽和点を超える可能性がありえる。
そのときにどういった方向に日本が向かうのかは
今回の民主党政権の極端な敗北や、ネオ右翼的な
「維新の会」などの勢力伸長を見れば、おぼろげに見えてくる。
まぁしかし、いまのところは日本の世論は冷静さを持っている範囲内だと思う。
そういったネオ右翼的な方向性に対しては、
たぶん、アメリカが日本国内の世論操作に乗り出す可能性も高い。
反対に、韓国・中国が要求するようなドイツ的な周辺国への対応が
日本として可能なのかどうか、これはハッキリ難しいだろうと思われる。
アメリカにしても、自らが主導した戦後日本の国家のありよう全般について
根本的な変更を加えるのは、アメリカの国益にも影響する可能性がある。
当面は、日本側に冷静な対応を求め続けるくらいしかないのではないか。
そして中国に対しては長い冷戦時代の日本の習慣的な外交姿勢
「対米従属」「アメリカ軍事力の脅威」が効果を発揮するけれど、
逆に米国同盟国家・韓国にはそれが効果を発揮しない。
そして韓国はそれなりに戦略的に、アメリカが戦後世界で使ってきた
「人権」というファクターを使って、アメリカに同意を迫る手段を使っている。
そういった悩ましい国際関係にいまの日本は置かれていると思う。
そして日本国内には、このような方向性を持った議論はあまり存在しない。
韓国に対して、あくまでも対話努力を継続するしか
いまのところはないだろうと思われます。
確かに戦後処理の仕方に置いて、ドイツのようにはしてはいないけれど、
そのことはアメリカの戦略的な、とは言いにくいだろうけれど、
戦勝国側の意図した、とでも言い換えて世界に
戦後日本の立場を明確に説明し、訴えていくしかないのではないか。
ただし、日本の外交姿勢はそのように訴求できるかどうか、
これもまた、きわめて疑わしい。
戦後日本がはじめて経験するような難しさに満ちた外交テーマだと思う。

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韓国と日本の関係

2013年11月07日 07時48分44秒 | Weblog


どうも韓国の国際的な外交政策は、反日に定まっているようだ。
2国間関係の基礎になっている日韓基本条約について、
その基本的な部分で無効を主張するのか。
条約交渉時、日本側が戦後処理について個人への「個別補償」を提起したのに、
韓国側から、政府が一括して受け取るとして、そのように処理されたのに
いまになって、それは人権問題で違うのだと主張し、他国を巻き込んで
日本の不当さを訴えるという外交を繰り広げている。
そうした主張に沿って、戦前の労働問題を当時の日本企業に賠償させる判決が
韓国で司法判断されているという。
さらに韓国女性大統領は、日本とは外交せず、
世界中の指導者と会談する度に、反日のコメントを繰り返している。
他国に行って、日本は戦時性奴隷容認国家だと声高に主張しているという。
そうであれば、韓国が指弾しようとしているのは
戦後日本という国家とそのありよう、ということになる。
だとすれば、国交自体も拒否すると言うことなのか。
日韓基本条約の破棄、ということを意思表示しているのだろうか?
第2次世界大戦に至る国際関係の残滓について、
ドイツのように、永続的な隣国に対する謝罪外交姿勢を取れ、というのが
基本的なスタンスのようだといえる。

どうにも、国家関係として、にっちもさっちも行かない状況になっている。
憂慮すべき事態だけれど、
日本人としてどう考えていくべきなのか。
韓国側の内部に、日本との関係改善ということを
冷静に模索する勢力は存在しないのだろうか。
また、日本人として隣国・韓国の人々と、どのような関係を作るべきなのか、
いち国民の立場に過ぎないけれど、憂慮に思い惑うことが多くなっている。
ドイツと日本は、戦後の立ち位置にも違いがあり、
国際的な役割でも大きな違いがあった。
ドイツの例を出すこと自体は仕方ないとは思うけれど、
それでは、戦後日本国家が侵略的な姿勢であったかどうかは、
国際的には一定の認証が存在もしていると思う。
やはり、一定の冷却的な期間が必要なのだろうと思われますね。
こういうことをもって、韓国側から国際的非難を浴びても、
冷静にやりすごすというのが、可能な最良の選択のように思われます。


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国による住宅と「健康」への関与

2013年11月06日 05時50分04秒 | Weblog


きのうは仙台で、「健康維持推進住宅」についての講習会が開催されました。
聞き慣れない名前なのですが、
平成19年から国土交通省によって設立された「健康維持推進住宅研究委員会」
<委員長/IBEC理事長・村上周三氏>において、6年間にわたって、
「生涯健康・生涯現役の実現、あらたな住宅環境やコミュニティのありかた」を
研究されてきて、その成果を発表するために講習会を開催したということ。
こうした講習会が仙台で開かれるのは、
日本建築学会会長になられた吉野博先生が、住まいと環境東北フォーラムを
主宰されているから、ということだと思います。

発表されていたのは、吉野先生と、
昭和女子大学の堤仁美先生、首都大学東京の小泉雅生先生の3人。
住宅の性能ということへのアプローチが
外皮の性能レベルだけから、設備も包含するような方向になって来て、
さらにそこで暮らす人間の健康ということにも
立ち入っていこうとしています。
聞いていて、これは厚生労働省の管轄の領域のような気がしてきましたが、
しかし、建築の目的はそこでの人間のふるまいも考慮に入れることが
不可欠である以上、このようなアプローチもありだと思います。
そこで展開されている論議は、テーマとしては平明なものであるのですが、
ある漠然とした領域であって、解析するには
あまりにもあいまいさが残らざるを得ないと思われました。
ただし住宅ユーザー側からすれば、わかりやすいアプローチには違いない。
冒頭で、吉野博先生から、こうした研究分野の意図が語られていましたが、
いま、国ではアベノミクスの第3弾、成長分野の開拓が大きなテーマであり
そのなかで「健康」というキーワードが産業育成の大きな事業領域として挙げられている、
というお話しがありました。
高齢化社会の進展の中で、
日本の産業構造改革を進めることで成長のタネを作ろうということでしょう。
世界が一斉に「高齢化社会」に突入し、日本がその先頭を切るかたちになっていることを考えれば、
たしかに住宅進化の促進として、このようなアプローチもあってしかるべきだと思います。

なんですが、なにせ、これまでの住宅性能のフレーズとは
まったく違うフレーズが満載されていて、
にわかには、判断しにくい領域だと思わされます。
まずは、じっくりとテーマを煮込んで把握したいと思っております。むむむ・・・。


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高齢夫婦2人、居間の要件

2013年11月05日 05時29分52秒 | Weblog


写真は、先日見学した北海道旭川地域での住宅。
「北の住まい設計社」によるご高齢のご夫婦2人のための家です。
現代は、人間の快適欲求が追い求められている稀有な時代だと思います。
わたしは、住宅というゾーンで変化と方向性を見つめ続けている立場で
いつも思うのですが、
これまでの社会では王侯貴族であるとか、
大土地所有者、大金持ちしか、享受できなかったような「快適性」が
市場原理、資本主義的な「普遍性」によって、
ごく普通のひとびとにまで行き渡りつつある社会なのだと思います。
王侯貴族の住まい、たとえば桂離宮であるとか、
皇族のために明治期に建てられた「別荘」なども見学したことがありますが、
それらは、装飾性においては格別ではあっても、
科学されたような「快適性」という面では、まったく劣悪だった。
というか、考えが及びもしていなかった。
むしろ古代ローマの追い求めたような暮らしの快適性、
奴隷制度という労働力によって支えられた社会的な富が、
「公衆浴場」的施設内での安逸な「いごこちの良さ」に向かっていたのと、
似たような快適性追求が行われてきていて、
それがまた、かなりの「普遍性」で実現された上で、
さらに上の「快適性」に向かっていっているのだと思います。

いま、現代の日本では
家族数が決定的に少なくなって行っている。
高齢化の進展で、そのような世代にとっての「快適性」が問われている。
住宅建築的なアプローチと、
社会的な「安心感」というようなアプローチと両方がある。
高齢者のための高額な介護つき「終の棲家」というような方向性は
一定の富裕層にアピールしたけれど、
そうした層の需要が一巡してきて、
やはり建築的アプローチが求められるのかも知れない。
作家の倉本聰さんは、棺桶に入ってから、火葬場に行くまでの
尊厳を持った旅出というようなことを論じられていましたが、
そこまでのことは考えないまでも、
しかし、豊かさや安心感を感じられる建築的装置の発展は必要になる。
さて、その中身がどこに核心があるのか。

写真のような居間も、やはりあり、なのでしょうね。
外光導入は、外部との交流というよりも、
室内に必要な明度の確保に絞った窓形状として実現させている。
そして、多くの家族ではなく、夫婦2人だけの楽しみとしては
テレビとかの情報娯楽よりも、主役には炎をたのしむ薪ストーブが据えられている。
結局、ゆらぎのような炎が根源的にひとを癒す力を持っている。
北海道の釧路郊外の高台傾斜地の別荘地では、
真西に向かって2層分の大きな窓が開口された居間で
安楽椅子に座って、毎日の「落日」を眺め続ける暮らしが実現されていたけれど、
ごく単純で永遠な「ゆらぎのあるもの」が、求められるのではないか。
わたし自身も、毎日の夕陽が最大の楽しみであるという暮らしようには、
強く心が惹き付けられる思いがする。
そんなことを想起し続けていました。

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東北にプロ野球日本一の栄冠

2013年11月04日 05時38分47秒 | Weblog


最後は、思った通り田中将大君の姿がありましたね。
野球の監督というのは、プロの試合の演出家でもあるのだから、
こういったやり方を、星野仙一ならするだろうという
まんまの手を打ってきた。
で、結果は見事に出て大団円となったけれど、
逆に言うと、楽天がジャイアンツに勝てるとすれば、
田中将大選手にすべてを託すという手しかなかったと思いますね。
戦力の全体計算で言えば、やはりジャイアンツはどう見てもナンバーワン。
そのチームに、ことしこの時点で勝つ作戦としては、これしかなかった。
そして田中将大選手を中心にひとつにまとまった集中力で
戦力差を撃破できた。
まことに、弱者の戦い方のお手本を見るようで清々しかった。
野球は戦力が基本因子のスポーツだけれど、
もっと大きいのは、偶然性のコントロールではないかと思うのです。
偶然性を生み出すのは、やはり選手の集中力が最大のものでしょう。
最終回の最後のマウンドで起こった、地鳴りのような東北のみなさんの声援には
ジャイアンツの選手たちといえども、戦い方を見失ったに違いない。
ジャイアンツ原監督の敗退後の笑顔が印象的でしたが、
素直に地の利を活かしきった星野監督の、
勝負への姿勢に、抗いきれなかったなぁという清々しさが感じられた。
最後にこの手がある、ということはわかっていたのに、
やむなく敗戦を迎えてしまった、という感じがありました。
きっと、きのうの戦局は、最終回に田中将大選手が大声援を受けて
マウンドに仁王立ちする、というクライマックスに向けて
つばぜり合いを見せる試合だったのだけれど、
そしてそのなかで、原監督も楽天の得点を3点に抑えてしのぎきって、
なんとか、打線の爆発を期待して手を打ってきたけれど、
総合的戦力の優位性を結果に結びつけることはできなかった。
田中君の完投敗戦の一昨日、球場の外に、チケットを得られずに
それでも集まったという東北の人々の静かな情熱。
そしてきのうは、隣接する競技場をパブリックビューイング会場として開放し
そこで多くのみなさんが声援を送っていたという。
こういう「偶然を生み出す最大の力」には、なかなか勝ちきることができない。
戦っていた相手ですら、なかば心の中で祝福せざるを得なかったのでしょう。

おめでとうございます。
なによりも、東北のチームが栄冠を勝ち取ったことを喜びたい。
日本人が愛し続けているプロ野球の歴史にも
格別な一章が加わったように思います。
わたしは、あした仙台に入るのですが、きっとこの余韻が
至る所で見られるかなぁと期待しています。
国分町は、だいぶ遅くまで賑わっていたのかなぁ~~(笑)。

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豆腐業界の消滅危機

2013年11月03日 07時31分03秒 | Weblog


ここんところ、食品に関することが話題に上がっている。
表示の偽装だとか、云々されている。
ああいうのは「差別化」という好きにはなれない風潮によって
猫も杓子もそれに便乗して商売をしていたことのしっぺ返しなのだと思う。
一部ホテルなどで日常的に「高級である」ことを偽装していたなかで、
ことばの言い換えが日常化していて、
実質は、特段の変わりもなかったことが白日化しただけなのだ。
第1、日本に元々いる小エビ一般をさすという「芝エビ」という言葉は、
そこに書かれているから認識するだけで
それが実は、純粋の意味では別の種類であるものも混入していて
そのなかの多くは「バナメイエビ」という本名である、などということに
こだわりを持つ、あるいは欺されたと感じるひとの割合は
ハッキリ言って誤解を怖れずに言えば、そうは高くないだろう。
そんなことは、騒ぐほどの問題か?
偽装とか、誤表示とか、するほうもする方だけれど
それを大騒ぎする方も、さてどうなんだろうと思わざるを得ない。
それよりも、こういった話題を提供することで
なにか、得をする筋がどこにあるのか、そっちのほうが興味深い。

そんなことを感じている中で、
より日本社会にとって本質的な危機が聞こえてきた。
きのうの読売の記事に

●豆腐店、続々廃業「365日働いても利益ない」
 豆腐業者が倒産や廃業に追い込まれるケースが増えている。

大豆価格の高騰に加え、スーパーから値下げを求められるなどして
経営が悪化し、豆腐業者はこの10年間に全国で約5000軒が廃業。
今年8月に破産申請をした都内の業者は
「365日丸々働いても利益が出なかった」と苦しい日々を打ち明けた。

というものがあった。
日本の食品流通構造の中で、
その底辺には、全国規模で大型化できない分野が存在する。
野菜や鮮魚などのほかに、いわゆる「日配」といわれる食品。
代表的なものが豆腐業界。
全国規模では、どうしても流通させることに難があって、
企業規模の零細な地域企業がその分野で活躍してきた。
しかし、デフレの波をモロに受け、
長期にわたって、価格決定権を大手スーパー、流通事業者に奪われ、
その傘下でしか生きていけない構造の固定化のなか、
ひたすら利益が圧縮され続けてきた。
豆腐という伝統的な食品分野はそういった業界構造の中にずっといる。
 厚生労働省の集計では、全国の豆腐業者は12年度は9059軒となり、
03年度(1万4016軒)より4957軒減った、とされている。
すごい、9年間で2/3になったのだ。
大豆も、包材としてのプラスチック製品も、
円安の加速で、どんどん悲惨な高騰状況になっていく。
貿易立国でやってきた以上、このような零細な業界が
消えていく流れになることは、もはや仕方ないのだろうか?
大手食品メーカーが参入できなかったのには、
食品としての「流通期間」が短い、ということがあったのだけれど、
それは防腐剤を使わない、という食の安全基準があったからだと思います。
で、このような業界構造の過酷な進展の結果、
最終的には、豆腐食品が
ある日、気がついたら日本の食文化から消えている可能性もある。
豆腐がない国になる流れをどんどんこの社会は進んでいると思われてならない。



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旭川駅舎新築工事

2013年11月02日 09時18分12秒 | Weblog


きのうは旭川に久しぶりに「宿泊」いたしました。
本当はやや郊外、高砂台というところのホテルでの会合だったので、
そっちの方が便利なんですが、
電話がかかってきて会合参加決定前にホテルが満室になったということ。
で、やむなく会合と宴会のみホテルに通うことにして、宿泊は市内中心部のホテル。
そこで、前から気になっている旭川駅の工事進捗状況を見て参りました。

建築家・内藤廣さん設計になる駅舎で、公共交通機関として
運転を切らさずに工事を続けなければならないという難工事。
でもようやく全景が見えてきておりまして、
なかなかにいい。
これは、かなり感じのいい建築が北海道に誕生しそうでワクワクしています。
建物は大きくは3層構造になっていて、
1階はエントランス施設群、2階が移動方向の振り替え交通路
それから上がって、ガラスと木で被覆されたボックスを出ての3階にプラットホーム。
写真は、そのプラットホームの屋根を支える「柱」の様子です。
この鉄骨フレームで組み上げられた「列柱」構造がそのままデザインになっていて
外気に接し内部を貫通させながら、屋根だけがあるという駅舎の主体部分。
あたりまえですが、風洞効果もあるだろうし、
積雪荷重の問題もあるだろうし、地震耐力の問題もあるでしょう。
それに冬期にはマイナス30℃以上の寒冷条件にも構造として耐えていく必要もある。
旭川という北海道でももっとも厳しい自然気候条件のなかで
しかも交通機関として、当然外と中との結節点を建築として表現する必要がある。
その「外と中」はガラスボックスによって、区切られているワケです。
ガラスボックスから2階、1階と移ろいゆく内部は
人肌に似た木質が表されていて、暖色系の色使いもあって、
北国の駅舎として、気持ちがいい演出がされている。
そして、市街地側ではない忠別川に面している「南口」側は、
そのまま自然公園的な表情を見せてくれている。
日本の駅舎の中でも稀有なような敷地条件のなかで、
それを活かしきっていると思います。
たぶん、完成したら、日本の最北地域の玄関口として、
その自然がおおらかに人々を迎え入れる、あるいはブリザードで歓待する、
そんな光景が目に浮かんでくるようで、楽しい。
いい駅を設計していただけたなぁと、うれしく思っています。
まだまだ北口側の市街地域との連結、
バスなどのローカルな公共交通との連結ゾーンの工事が継続していて、
全貌がハッキリとしてくるのは、もう少し時間がかかるようです。
叩かれ続けている積雪寒冷地の交通企業、JR北海道ですが、
この駅舎の工事完成の頃には、ぜひ企業としても課題を克服して
がんばって行ってほしいものだと念願しています。


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車庫と街並み景観

2013年11月01日 05時46分55秒 | Weblog


北海道のような積雪寒冷地では
街並み景観の維持というのは、なかなか難しさがある。
本州温暖地域と違って、冬には積雪するので、
そういった「残余」のスペースを確保しておかなければならないので、
どうしても「間延び」した印象になってしまう。

で、車庫の問題であります。
車庫って、建物と一体にしてデザインしないと、
街並みの中での調和って、大変難しい。
独立的な、それこそ「物置」みたいな箱がどんと存在すると、
それひとつで、街並みもなにもすべてどっかに飛んで行ってしまう。
写真はきのう見学していた北海道旭川地域の住宅です。
この家では敷地が80坪ほどあって、
このように建物本体と一体となったカーポートがデザインされていて
たいへん調和が取れていて、
街に対して表情を持ったたたずまいが演出されている。
こういうことが可能なのは、容積率や建蔽率、建築面積といった法規に対して
敷地がゆとりがあるから。
北海道でも札幌など、敷地が50~60坪と狭小化してくると、
法規に整合性を取れなくなって一体型のカーポートを造作することは難しい。
一方で、「ハコ」だけのカーポートは、
勝手に「置くだけ」ということなので、
なんの制限も規制もなく、自由に設置することが出来る。
結果として、街並み景観はその「自由なひとり、一個人の勝手」で
「あれでもいいんなら、なんも我慢しなくていいだろう」という
われもわれも状態を呼んで、メチャクチャな「街並み」が出来上がる。
出来上がってから、今度は「街並みが美しくない、なげかわしい」とか、
行政の側から、指導的な介入が行われてきたりする。

要するに、街並み景観の美感向上を考えるのなら、
そのような「ハコ」だけカーポートに
ユーザーが走らないような法体系にしなければならない。
街並み保全、美感向上のためには、
建物と一体となったデザイン的に統一されたカーポートについては
上記のような建築的規制を緩和すればいい。
わが家でも、雪の問題があるし、本当は構築的なカーポートを造作したい。
しかし、敷地面積に限りがあって、適法的にはできない。
やむなく青空駐車にする、
あとはロードヒーティングに頼るしかなくなる。
実際わが家では高齢化をにらんで、
新築時からロードヒーティングを敷設したけれど、
やはり地球を温暖化させるだけにしかならないので、
出来れば止めたくなるところに、石油価格の急上昇もあって、止めた。
デザイン統一された造作カーポートが一番の積雪対策になるのだけれど、
現状では、法規制がクリアできない、というジレンマなのです。
そうであるのに、ときどき行政サイドから、
「街並み景観」シンポジウムみたいなのに招かれたりもする。
まったくバカバカしいなぁと思っている次第です。
札幌の市長さん、やや尻切れトンボ的ながら
エコにずいぶん力を入れているようですが、
こういったすぐにでも可能な景観向上のための
雪国の大都会としての美感向上「特区」申請などに
知恵を絞り、ぜひ取り組んでいただきたいと思う次第であります。
札幌型次世代住宅みたいな、ザルのような取り組みよりも、
確実に札幌の街並みが美しくなる施策を一つでもやってほしい。
切にお願いしたいと思います。


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