三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【八戸の元気炸裂! 「市場らしい」八食センター】

2016年09月20日 07時11分06秒 | Weblog


八戸にはクルマで行くことが多いので、
つい足を伸ばしたくなるのが「八食センター」です。
水産食品を中心にした市場と、食堂など店舗が市場を形成している。
観光客も来るけれど、主体は地元のみなさんのようです。
一番上の写真のように、元気の良い近海のサメまでもが歓迎してくれている(笑)。
「さわっても良いよ」とまで書かれていました。
どうにもこういった雰囲気が大好きであります。
下の写真は広告ポスターですが、
ちょっとアナーキーな雰囲気も醸し出していて、
いかにも食品市場らしい自由さが強く感じられますね。
こういう「祭り」感覚は、無条件にひとの心理的開放感を呼ぶ。
こういった「人を呼ぶ雰囲気」というのが、「市」成立の原点なのだと知れる。

古民家とか歴史行脚とかしていて、
最近、こういった「市」というものの原初的な成立とかといったことに
興味が深まってきています。
きのうのブログでは、木を利用する根源的な手段の成立を
考えていたのですが、そのようにして生産された有用物が、
どのように「交易」されたのか、ということにも自ずと興味が強まります。
さまざまな有用性への人間の努力が積層して、
小さなコミュニティ範囲を超えるような「需要と供給」の事態が発生し、
それを小さな社会同士で「交易」させるということは、
相当古層からの人類の普遍的活動であったということですね。
おおむね人類生存は、河川交通や海上交通の利便を考えた船利用可能地が優勢。
コミュニティ同士の「境界」もまた、そういった地域に生起した。
そこに「市」が開かれて社会相互のモノの交換、交易が成立した。
いわゆる海の幸、山の幸というものの交換。
たぶん、建築も初源的な環境共生型の定住住居の段階から、
交易という段階に至って、複層化していったのでしょうね。
自然との協調が基本の「生産活動拠点」から、市的な「交易活動」重視へ。
さらには、交易活動の安寧を保証する安全保障の必要性へ。
たぶん建築は、交易の「人を驚かす」要素や安全保障のために
「服させる」装置的威圧へと発展していったのでしょうね。

おっと、また夢想方向に向かってしまう。
実はこの八食センターでとんでもない買い物をして困っている(笑)。
この時期なので栗が安く販売されていて、
それをパカッと割って食べるイメージが膨らんでしまって、買い込んでしまった。
買ってから、あれは天津甘栗であって日本の栗はパカッとならない。
そういった基礎的な知識もなかったのであります。
「クックパッド」を見れば「簡単な栗のむき方」があるだろうと、安易に考えてしまった。
どのページを見まくっても、鬼皮と渋皮を剥くのがいかに大変か、
きのう1日、この栗との格闘に明け暮れていました(泣)。
さてどうしたものかなぁ・・・。
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【木を切って利用する人類知】

2016年09月19日 07時33分25秒 | Weblog



八戸にある「是川縄文館」を再見。
人類も経験を積み重ね文明を創造してきて、
その進化記憶を遺すものとして、文字を作り記録を残す段階から
より体験的で直接的な映像記録、復元などが豊富に表現されてきている。
わたしが生きている時代時間だけを考えてみても、
単に文字記録・図示だけだったものから、より具体的な写真や復元として
強いメッセージ力で迫ってくるようになった変化のプロセスを体験している。
きっと現代は、そうした人類知が急速に普遍化してきた時代なのでしょう。
公共的博物的展示施設の増大のなかで、
人類知展示そのものについての進化発展も図られてきているのでしょう。

木を切って、それを加工して有用な利用をする、
という営為を人類はいつから、どのように始めたのか、
建築の材料としては、ヨーロッパ世界や中国では石造の方が
より普遍性進化方向だったかもというなかで、この列島社会では、
三内丸山とかの縄文の世から木造技術に大きく興味が集中していった。
写真はそういう原初についての基礎知識を教えてくれているもの。
下の写真のような特殊な形状を見せていた自然木に着目し、
その端部に、鋭利な石器を嵌め込んで「斧」を作り出していた。
こうした人類知は、狩猟生活の中で食料としての動物種を獲得するための
基本的道具の知見が技術基盤を提供したのだろう。
斧の形状のような木は、枝木の形などを丹念に正視し続けて、
その形状を応用するという知恵が湧いてきたのだろう。
もちろん、斧にふさわしい固い樹種を選択する知恵も同時に深まった。
現代では樹種認識仕分けは前時代までに比べてむしろ退行していて、
数種類にしか分類されていないそうですが、
木質資源の多様性・有用性への知見が深かった前時代までは、
こうした樹種への感受性は比較しようもなく高いレベルだったといわれる。
特定樹種の特定部位が、特定作業道具としてもっとも有用性が高いという
まことに知的な認識体系は、現代人には及ぶべきも無いのだと。
その斧状の木に鋭利な石を付加して、それをつる性植物繊維加工物・ひもで
くるくると巻き絞って有用性の高い道具に加工してある。
ここまでに知恵が至るのに、どれくらいの人類の世代積層があったのか、
その深遠さに思いを致すとき、先人の叡智に深く感動させられる。
木と石は、人類が自然から発見した最適な普遍的な素材だったのでしょう。
縄文の時代には、基本的生存・食料獲得のための消費時間は4時間とされ、
残余の時間に、こういった人間的生産活動も行われてきた。
やがて社会の規模が拡大して分業が明確になっていくのだけれど、
縄文の世ではそこまで分業的にはなっていなかったとされる。
しかしそういう時代でも、こういった人類知は明瞭にかたちを成していた。

いま、木造建築・住宅の情報伝達の仕事に関わっていて、
静かにリスペクトの気持ちがわき上がってきていた次第です。
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【座礁にめげず静かにルーツを思い続ける】

2016年09月18日 07時35分15秒 | Weblog
歴史が面白いと思う人間とそうでない人間と2種類あるようですね。
歴史好き側からすると、へぇそうなんだとビックリする。
わたしは6人兄弟ですが、2番目の兄は歴史好きというか、
自分のルーツ探しに興味を強く持っているけれど、
他の兄姉たちは、まぁ話に付き合っているという感じ。
こういうのは人間の気質の問題であるのかも知れませんね。

先日の大阪の図書館からの調査結果のお知らせを受けて
やや頓挫の感のあるルーツ探索ですが、
きのうも司馬遼太郎さんの「街道をゆく」神戸編を読んでいて
ふと「紀州人がやることといえば、木材で身を立てることを考えるくらい」
というような内容の記述に目が点になるほどに反応していた(笑)。
そういえば、わが家は紀州から流れていった先は広島県東広島市河内町入野。
いまでは高速道路・山陽道「河内」ICにほど近いのですが、
行ってみたら、山地が迫っている谷川の流域といった地域。
入植後間もなくして、この地域での「庄屋」になったり、
兄弟から医師になった人物も出たりしている。
江戸期の経済は大きくは、都市の町衆・商人と地域の経綸家・庄屋たちが
経済にはあまり強い興味を持たない武家官僚機構と対話しながら
「運営」されてきた時代だと思います。そういうなかでわが家系の動きは
単なる関ヶ原前後の「落ち武者」一族的な動静とは言えない。
一定の経済的な基盤が存在していたことをうかがわせる事実がある。
山間の土地に入植したのは、材木・造材など森林業を
目当てと考え、それである程度の成功を収めたのかも知れない。
司馬さんの神戸についての記述の中に、
紀州藩士脱藩組で神戸の基盤的な道路開削に関わった人物の記述があって
混乱期には建設関連投資が活発化すると見定めて成功した様子が記されている。
場所も時代も、もちろん規模も違うけれど同じように
破壊と建設が同時に進行した戦国・江戸初期の時代に
目をこらせば、そういった木材産業に目をつけたというのはあり得る。
なにか、動機の部分での「生き方」視点的に一歩前進感がある。
・・・というような、ちょっとしたことにも敏感に反応して
まだまだルーツ探しの情熱、ますます元気に萌えてきています(笑)。

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【森の環境建築 「人を暖める」ものづくり】

2016年09月17日 06時14分05秒 | Weblog


きのう朝、前から一度は行ってみたかった、
輻射熱暖房器メーカー・ピーエスさんの岩手県の工場オフィスを訪問。
ピーエスさんのこと、その歴史などを詳しくは知らなかったのですが、
なんとなく単なる暖房器メーカーというよりも、
その企業のめざすものの静かな開示という姿勢が、その生みだした建築に
明瞭に浮き出ているという点で、あるリスペクトを持って受け止めていました。
北海道北広島の工場、ゲストハウス見学でもその思いを強くしていました。
東北岩手、盛岡近郊の松尾八幡平ICを下りてすぐにこの建物は立地している。
「PS」という企業ロゴだけの入り口サインを抜けていった森の中に
めざす建築はたたずんでいました。

先日、新建築住宅特集さんが特集された「環境住宅特集」に
やや違和感を感じ、ちょっと申し訳なかったけれど異議申し立てしたが、
やはり環境建築というもののありようとしては、
その佇まいにおいて、ある静寂性、静かな主張性というような要因が
欠かせない属性・感性なのではないかと思い続けていた次第。
声高に主張すると言うよりも、できるだけ主張しない
シンプルな構成要素、選び抜かれた簡潔さこそが好ましく思える。
その選択においては、それこそコンセプトに忠実で正直であること、
そのようなものとして「環境」という建築はあるべきなのでは。
喧噪の中で、これ見よがしに騒ぎ立てるようなものとしてではなく、
静粛な主張性こそがふさわしいのではないかという思い。
ピーエスさんの企業のありよう自体に感じてきたことが、
そういった思いのベースのような気がして、訪ねてみたくなったのかも。
聞いたら、ピーエスさんの輻射暖房は、
1972年札幌冬季オリンピックの時に、主に北欧からの選手たちの
暖房器に対しての感受性の申し立てがあって、普及が進んだとのこと。
それまでの暴力的な暖房、空気暖房のけたたましさに対する違和感。
より静寂で、人間を「暖める」思想への志向性ということでしょう。
北国人としては、この部分には深く共感を持つものです。
簡素な素材たちで構成された空間、建築に、
共感とともに、深く癒されるなつかしさを感じた次第であります。


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【安藤忠雄 十和田市民図書館】

2016年09月16日 06時02分28秒 | Weblog
青森県は非常に複雑な歴史経緯をもつ地域。
縄文以来の土器で知られる津軽半島西部地域、
三内丸山などの遺跡が日本史を書き換えたのは周知の事実。
またほぼ同時期と言われる八戸周辺の縄文文化がベースにある。
津軽地域では米作が日本のなかでも非常に早い時期に行われたという。
しかしそれは根付かず、その後中世には安倍氏・清原氏・藤原氏の
岩手県地域の「日本権力」との境界地域の後背地として
北海道や北方アジア世界との交流の基地にもなってきた。
津軽地域にはそういった風土性が根強く残っている。
それに対して、八戸市一帯地域は古くから「馬産」が地域産業として
大きな足跡を残し、今に至るも地名に馬産以来の地域名称「戸」が
多量に残ってきている。
そこに馬産先進地域であった甲州起源の武装勢力が進駐し、
武権を確立したのが、南部藩の祖形にあたる。
その南部藩が津軽地域も含めて広域の支配を確立したけれど、
それに対して津軽は戦国末期になって反乱を起こし、
津軽氏による対南部独立が、
中央権力豊臣氏との外交勝利もあって達成される。
以来、津軽と南部地域との対立の根がこの地に残り続けてきた。
さらに明治維新政府樹立に際しては、両地域間での抗戦もあった。
その上、明治動乱の敗残地域、会津からの下北地域への入植。
・・・というようなきわめて複雑な「地域性」が絡み続けてきている。
北海道の隣で、気候風土的には一番親近な地域だけれど、
まことに地域の抱える歴史性の相違に驚くほどなんですね。
ただやっぱり風土的人間性では、同じ「北国人」としての気質を共有する。
きのうは、青森南部地域をあちこちと行脚していました。

で、たいへんお世話になっている十和田の平野商事さんを訪問。
最近、この安藤忠雄建築やら、西沢立衛さんによる「十和田市現代美術館」
さらには新国立競技場設計コンペで勝利した隈研吾さんの建築など
デザイン系の建築が地域として特異的に集積を見せている。
またそういったデザイン系の設計事務所が開設もしたり、
たいへん面白い展開を見せてきています。
いろいろなみなさんとの情報交換で、さらに今後活発な動きも見られます。
青森県内での建築的な動きにはちょっと目が離せなくなりそう。
ということで、時間の合間を見て安藤さんの作品を見学。
地域ならではの面白い裏話情報にも接することもできました(笑)。
この年末時期には、鎌田紀彦先生と前真之先生のコラボセミナーも
予定されていて、会場としてこれらの「公共施設」が想定されているとか。
こういう「出会い」にも期待が膨らんできますね(笑)。
この安藤建築に特徴的な三角屋根部分は巨大な「採光」部ですが、
同時に夏場には巨大な「集熱部分」にもなり得ますね・・・前先生。
という話題などでも盛り上がって、楽しく建築鑑賞させていただきました。
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【紀州のわが家系探求、やや座礁に】

2016年09月15日 06時26分22秒 | Weblog
本日は東北に移動。久しぶりに北東北なのでフェリーで移動。
2〜3年前までは、体力的にも全然大丈夫ということで、
とくに震災直後など頑張っておりましたが、
最近はややわたし自身はやや足が遠のいております。
年齢も加わってくきたので、どれくらい駆け回れるか、であります。

なんですが、それとは別に個人的なルーツ探検、
先日の紀州・和歌山探訪の旅の成果として、
大阪府立図書館さんのWEBレファレンスサービスを利用して、
なんらかの情報にたどり着けないものかと期待していたのですが、
その返答がきまして、どうも芳しくない状況であります。
慶長年中、という今から400年以前のことですから、
手掛かりはなかなかないようであります。
どうもわが家のご先祖様は、紀州・桑山重晴という
豊臣秀長の代官として紀州和歌山に城を構えた家中に
「仕官」していたようなのですが、
この「城代」としての、事実上の「大名家」という存在では
正史としての文書記録などはなかなかないようです。
一部要旨抜粋は以下のよう。
『和歌山県史:中世史料 2』(和歌山県史編さん委員会/編 )
p.441-444に桑山重晴宛ての書簡が収められている
「護念寺文書」が収録されています。
巻末の「護念寺文書」についての解説には
「桑山氏の在城時代(1585~1600)に松屋町に移し、
城の鬼門の守護となし、その名も護念寺と改めた。・・・・
当寺は豊臣氏の城代桑山法印重晴(号果報院)と縁故が深く、
桑山氏関係の文書を所蔵するに至ったものであろう。
11通の書状のうち、前後を欠いたものもあるが、
すべて桑山法印(重晴)に宛てたものと思われ、差出人は
羽柴秀長・小西長政・大谷吉継・前田利家等の武将のほか、
天満年寄中というものもある。残存量の少ない桑山時代の史料として
貴重なものである」(p.1078)と書かれています。
なお、この資料には家臣に関する記述はありません。

というような状況。
この桑山家は、関ヶ原において両端に侍する立場を取っていたので、
たぶん都合の悪い側(西軍側)の立場で行動した家臣たちは
そのため戦後、家のために身を引かざるを得なかったのではと推測される。
そういうこともあって、記録手掛かりもないのでしょう。
う〜〜む、ルーツ探し、完全に暗礁であります(泣)。
まぁ趣味の世界ですので、気長に突破口を探したいと思います(笑)。
本日は、ややテーマズレでした。あしたから本題に戻ります。
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【中世都市・堺の街区計画】

2016年09月14日 06時27分14秒 | Weblog
日本史の中で、中世都市・堺という街は異彩を放っている。
写真は境市博物館で展示されている江戸期の街並み図。
もちろん撮影OKというものなのですが、
わたしが探している信長に屈服する以前の独立中世都市・堺とは違う。
学芸員の方に聞いたら、その時期の街割り図はやはり現存していないそうです。
堺というのは大航海時代の世界と日本社会との接点。
どのような勢力からも独立を貫き、鉄砲の販売を主軸に
海外産物の交易と国内流通の利権を一手に握って、
自衛組織を傭兵などによって確立していたとされている。
その時代の奈良で、堺からもたらされた輸入の「ファッション」が
若者たちの心を捉えて、大ブームになったというような記録もあるそうです。
たぶん、わたしたちの社会の中で長く生起した海外文化への憧れが
この時代になって、完全にそれが堺の「町衆」に独占的利権になった、
そういうことを伝えてくれているのだろうと思います。
堺という地名は、そういう自由とか開明性とかの象徴のようなものとして
感受性の強かった信長、秀吉などの世代に大きな影響を与えたに違いない。
そういえば家康ですら、信長の横死直前に堺見物に行っていた。
戦後の横浜、神戸などが占めていた文化的位置の嚆矢として
この堺の街は日本史の中に存在し続けていると思う。
この街においては、ほぼ完全な自治が達成されていて、
ほかの日本社会でどんなに敵対的関係にあっても、
この街内部では、その敵対関係による騒乱行為が禁じられていた。
商人たちによる独立自治が日本国内で完全に成立していた。
街区間には木戸が設置されていて、
夜間にはそれが完全に閉じられて、治安も維持されていたとされる。
たぶん、その後の江戸の街割り、街区形成などに
その到達した都市計画思想は反映されてはいるのだろうと想像しています。

かれら内部での行政的自治機構がどんなものであったのか、
そして街割り、都市計画、住宅のかたちはどんなものであったのか、
この絵図面に魅入りながら、想像力を働かせていた次第。
いまも時空を超えて「取材」してみたいと強く思っております。
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【ZEHテーマで北総研・鈴木大隆氏と対話】

2016年09月13日 06時59分09秒 | Weblog
きのうは北総研・本部長の鈴木大隆氏を囲んでゼロエネハウス(ZEH)について
地域工務店トップのみなさんとの討論会が当社にて行われました。
年末発行の北海道の地域工務店グループ・アース21の本
「北海道の家づくりの現場から」の特別企画です。
鈴木さんは国交省の政策参与を務められるなど、北海道の立場に立って
国の政策についても関与されている存在。
わたしどもReplan誌でも毎号、エッセイを執筆いただいています。
鈴木さんはこのZEHについては、直接的な関与はないとされていましたが、
地域としての北海道、地域工務店としてZEHにどう対応すべきか、
その知見を伺いながら、多くの気付きを得られた対話になりました。

内容について詳しくは、12月に発行する本の中でまとめたいと思いますが、
ひとつの対話内容として、地域のサスティナビリティの探求という
非常に豊かな方向性も得られたことはお伝えしたいと思います。
これまでは補助金付けでの太陽光発電誘導の側面が強く、
そのインセンティブばかりが強調されている感のZEHではありますが、
まず鈴木さんから、北総研の緊急的活動として今回台風で大きく被災した
南富良野町の災害復興計画などに立ち向かわれていることを聞きました。
人口減少社会の「地方の課題先進地域」である北海道で
その由来が全地球的規模での気候変動であることが容易にわかる、
それこそ50年に一度くらいの深刻な被害の状況、
突発的災害の多発という待ったなしの現状にどう対応すべきか。
大きくは環境産業創出という側面も持ったものとしてZEHを捉え直し、
「地域起こし・再生力」の方向性を持って対応すべきという論議になりました。
このような気候変動、安定期から変動期への激変という
地球環境変動はその根源に於いて同時にエネルギー問題だという認識。
変動期の激変を乗り切っていく、地域としてのサスティナビリティの探求、
世界共通で取り組んでいるZEHにはそのような意義があるでしょう。
そしてそのなかで災害は今後とも否応なく襲ってくる。
そこから地域が再生力をどう作っていけるのか、という根本的認識。
地域が生き延びていくためには、そのエネルギーについても
自立的な産業要素として考える視点が求められてくる。
太陽光発電の売電という手法ばかりではなく、
地域としての再生可能エネルギーの取り組みという考え方もあると思います。
ZEHはその理念として、環境産業を育てていく契機にもなりえる。
そういう考え方を持てば、地域コージェネによる共有エネルギー資産形成など、
志向性の幅は大きく広がっていく。
地域に責任を持つ作り手・工務店は、公共との連携でそうした地域活動の
大きな核心になれる可能性がある、そんな対話が成立したと思います。

多くの方からZEH反対の急先鋒と誤認されているわたしですが(笑)、
このような気付きを得られたこと、率直に申し述べたいと思います。
今後のエネルギー技術の進展に注目しながら、
地域が生き延びていくための手段としてのエネルギー・環境の視点を
今後どのように目的的に追求するか、考えどころだと思われます。
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【里山住宅博・ヴァンガードハウス2これからの家】

2016年09月12日 07時37分15秒 | Weblog


さて先日の神戸での住宅見学です。
関西訪問という機会はあまりないので、あちこち調べて駆け足行脚。
ということなので、残念ながらあまり事前情報チェックはできていませんでした(泣)。
そういうわたしにも、どうやらセンターハウスのような住宅に
新住協メンバー・ダイシンビルドさんが施工して建築家・堀部安嗣さんが
設計された住宅があるという、断片的な情報だけがあったという次第。
堀部安嗣さんはわたしは面識はないのですが、住宅作家として著名な存在。
その方が高断熱高気密の作り手と協同する建物ということで、
この機会に見学しようと考えていた次第です。
ヴァンガードハウスって、意訳すると前衛的な家ということになるのでしょうか。




上の写真は現場で見せていただいた図面で、4間×4間の黄金パターン。
階段部分だけ出っ張っているけれど、コストパフォーマンスの高そうなプラン。
北側に里山の眺望が広がる立地条件そのまま、
居間から可能な限りの開口をそちらに開くというシンプルなプラン。
暖房は床下エアコンを装置。居間と土間的なダイニングの中間に
エアコンスペースが置かれ、基礎断熱の床下に送風する仕立て。
そこで暖気が貯えられ、窓面直下などに開けられたガラリから上昇させる。
南側ダイニングに土間が採用されているのは
南面の日射熱をダイレクトに取得しようという工夫だと思われます。
夏場の冷房は階段室壁面に付けられたエアコンで家中を冷房する仕様。
いまはセンターハウス機能も担っているので、
そのエアコンを格納させている間仕切り収納が受け付けテーブル代わり。
断熱的には基礎断熱がGW200mm、壁は4寸角部材使用のようでGW120mm、
天井GW200mm、土間下FPボード50mmという構成でした。
省エネ基準相当の「燃費」に対して半分の性能要件が実現されている。
1階の居間・ダイニングの大きな開口部には木製3重ガラス入りサッシ。
玄関内部の壁はラワン合板が使われていました。
案内の方に確認させていただいたのですが、この建物では基本的造作面材として
たくさん使われているとのこと。
ラワン合板って一般的には目に付くところには使わないと思いますが、
見た目でも美しい表情を見せてくれていて違和感はありません。



上の写真は2階の様子。左側に主寝室、右側が個室ですが、
個室側はラワン合板で造作された間仕切り収納でセパレートされていて、
子供室2室という使われ方も想定しているようです。
またその個室群に対して4枚の引き戸もラワン合板で造作されていました。
このあたりの素材選択・造作はかなりチャレンジっぽいと思われました。
この廊下突き当たりに水回りが集中されていて、それも南北に通っている。
右側が南側で道路側で、洗濯・物干しスペースがまとめられていて、
左側にはお風呂とトイレ、洗面が配置されている。
回り階段の真ん中の衝立状の手すりは薄い壁厚なのに大変頑丈。
時間の関係であまり詳しくは聞き取れなかったのですが、全体として
寸法の感覚がしっかりしていて、コンパクトだけれど使いやすさが伝わってくる。
まことに「仕立ての良さ」が感じられる住宅だと思いました。

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【エスカレートする金正恩・北朝鮮危機】

2016年09月11日 07時05分10秒 | Weblog
本日は安全保障ネタであります、ご容赦を。

北朝鮮の核開発・ミサイル発射などの挑発行動が暴走している。
これまでの政策の完全な失敗をオバマ米大統領は痛感しているようだ。
アメリカにとっては中東情勢が最大の問題であることは今後とも違いないが、
中国に対して「覇権国家」としての一定の存在意義を認めて
東アジアにおいて6カ国協議でのイニシアティブを渡し続けてきて、
そのことを冷徹に自らの「台頭」に利用し続けてきた中国のふるまいにも
いまや歯止めが利かない状態になってきた。
核実験を年に2回も実施できる国際環境は、中国の海洋でのふるまいと
連動して生起していることは明らかであり国際的共通認識になってきている。
オバマ政権末期のこの状況は、アメリカの戦略の破綻を示している。
中国はアメリカの艦隊が南シナ海で活動を活発化させても
「既得権益」を決して手放そうとせず、
また中国自身のその「野望」のために北朝鮮の暴走を利用してきている。
この期に及んでも韓国のTHAAD配備を声高に非難している中国は
北朝鮮の暴走ぶりとどこが違うというのだろうか?
そして尖閣に対しての「漁民」の組織的動員、
民間人を装っての「侵略的活動」も、連動させてきているのは明白。

東南アジアでの国際会議中には日米会談は開かれなかったけれど、
オバマが帰国する大統領専用機搭乗中に、日米首脳による
「電話会談」が行われ、北朝鮮の挑発行動への対応が話し合われた。
直後に、東アジア安保問題についてのアメリカ側担当者が緊急来日するなど
やや緊張感をもった動きが生起してきている。
朝鮮系アメリカ人のこの担当者はテレビ直撃インタビューで
「あらゆる事柄について、率直に話し合う」と発言していた。
アメリカの対応としては、政治危機というよりも
軍事的対応も含めた危機認識に移ってきている可能性がある。
結局世界は、アメリカの世界戦略変動を大きな起動要因として動く。
そうであるとすると、東アジア世界のいまの緊張レベルは上がってきている。
日本の安全保障にとって、日本の排他的経済水域への北朝鮮の相次ぐ
ミサイル着弾や核実験という事態は、まさに相当に深刻な局面。
北朝鮮側のちょっとした現場的判断ミスでの偶発的事態も想定する必要もある。
このような事態が日本にとっての安保上の大きな懸念事態であることは
かなり明瞭になって来たし、国民としても身の安全を思う状況になってきた。
「専守防衛」原則である以上、ミサイル基地を先制的に叩く戦力は
日本は装備してきていないのだ。
もちろん日本として冷静に対応すべきだけれど、
日本国民の命を守る安全保障に弱腰で臨んでいい事態であるとは言えない。
国際平和のために、北朝鮮および中国に対して、
かれらが自制するように対応をして行かなければならないのは当然だろう。
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