八戸にはクルマで行くことが多いので、
つい足を伸ばしたくなるのが「八食センター」です。
水産食品を中心にした市場と、食堂など店舗が市場を形成している。
観光客も来るけれど、主体は地元のみなさんのようです。
一番上の写真のように、元気の良い近海のサメまでもが歓迎してくれている(笑)。
「さわっても良いよ」とまで書かれていました。
どうにもこういった雰囲気が大好きであります。
下の写真は広告ポスターですが、
ちょっとアナーキーな雰囲気も醸し出していて、
いかにも食品市場らしい自由さが強く感じられますね。
こういう「祭り」感覚は、無条件にひとの心理的開放感を呼ぶ。
こういった「人を呼ぶ雰囲気」というのが、「市」成立の原点なのだと知れる。
古民家とか歴史行脚とかしていて、
最近、こういった「市」というものの原初的な成立とかといったことに
興味が深まってきています。
きのうのブログでは、木を利用する根源的な手段の成立を
考えていたのですが、そのようにして生産された有用物が、
どのように「交易」されたのか、ということにも自ずと興味が強まります。
さまざまな有用性への人間の努力が積層して、
小さなコミュニティ範囲を超えるような「需要と供給」の事態が発生し、
それを小さな社会同士で「交易」させるということは、
相当古層からの人類の普遍的活動であったということですね。
おおむね人類生存は、河川交通や海上交通の利便を考えた船利用可能地が優勢。
コミュニティ同士の「境界」もまた、そういった地域に生起した。
そこに「市」が開かれて社会相互のモノの交換、交易が成立した。
いわゆる海の幸、山の幸というものの交換。
たぶん、建築も初源的な環境共生型の定住住居の段階から、
交易という段階に至って、複層化していったのでしょうね。
自然との協調が基本の「生産活動拠点」から、市的な「交易活動」重視へ。
さらには、交易活動の安寧を保証する安全保障の必要性へ。
たぶん建築は、交易の「人を驚かす」要素や安全保障のために
「服させる」装置的威圧へと発展していったのでしょうね。
おっと、また夢想方向に向かってしまう。
実はこの八食センターでとんでもない買い物をして困っている(笑)。
この時期なので栗が安く販売されていて、
それをパカッと割って食べるイメージが膨らんでしまって、買い込んでしまった。
買ってから、あれは天津甘栗であって日本の栗はパカッとならない。
そういった基礎的な知識もなかったのであります。
「クックパッド」を見れば「簡単な栗のむき方」があるだろうと、安易に考えてしまった。
どのページを見まくっても、鬼皮と渋皮を剥くのがいかに大変か、
きのう1日、この栗との格闘に明け暮れていました(泣)。
さてどうしたものかなぁ・・・。