自分の中に留まっていた思いが 言葉となって
放たれるとき、影響力のある人ほど それを聞いた人が、
目にした人がそれをどの様に捉え受け取るのかという事を
よくよくシミュレーションする必要があると思わされる。
表現の自由とは言え、放つ言葉には
取れる、取れないは別としても、
やはり責任が伴うように私は思っている。
自分の主観であり思いをブログやFBに綴る時、
放つ言葉に責任を持っています、という思い
それを誰が発したのかの出所を
あいまいにしないためにも敢えて、
【私は】という言葉を添えている。
そうすることで言葉の重みをより意識すると共に
自分の気持ちも引き締まり、
言葉に対しての敬意も忘れずにいられる気がするから。
そしてまた一瞬思いついたような言葉を活字にする時も、
人に話す時も、感情のままに 汚い言葉で
思いやりという産着にくるむことなく
ただ垂れ流すということはしないようにしている。
言葉という生ものは、一瞬で人の心を溶かす事もあれば
その逆もしかり、使い手に備わる思いや経験値や
引き出しや情緒によって珠玉の言葉にもなり
荒ぶる冷たい剣(つるぎ)にもなると思う。
自身が文章のスペシャリストでないことを
よくよく知っているので、勘違いすることも無く
おだてに乗ることも無く、毎回
【言葉の重み】と【責任】を念頭に置き、
真摯に丁寧に
自身のその時々の想いを顕すよう
心掛けてはいるものの
100人100様なので、
自分が発した真の思いとは別の
捉え方をする方もいるであろうという事も
よくよく理解している。
また、私は
群れることや、隠れ蓑や、誰かのせいにする、
ということが好きではないので、
常に責任を意識しながら言葉を綴っているが、
そこには自分が書いたことに対して
「賛同を募りたい」という思いもなければ、
その道のパイオニアとなって
多くの人達に影響を与えたい、などという
大それた思いもさらさらなくて、
拳を掲げ何かを煽りたい、
という思いもない。
そして発言する時、書く時、
最初から上手に逃げ道を用意して
著名な人の名を先ず先に出したうえで
「どこどこの誰それさんも かくかくしかじか
と言っていたから・・・・」と、言うこともしない。
何故ならそれはまるで、虎の威を借る狐の如く、
潔いやり方ではないと思わされるから。
もし、自分が信じ 志すものに対して
本当の意味で揺らがない自信があったなら、
どこどこの誰それさんが・・・・などと
毎回、余分な修飾語をつけなくてもいいのでは?と
率直に思うから。
なので私は発言する時、
「○○さんが、△△と言っていたので絶対です」など、
結果的に相手にご迷惑がかかるような
無責任な表現も断言もしない。
常々【書く】ということは
本当に難しいことであると
私は、であるが そう思っている。
表現力が乏しく、荒削りな言葉を
ただ勢いに乗って
やんや やんやと発信するのは、
ある意味 時代遅れな気がしないでもない。
言葉が自分の中から
ひとたび放たれようとする時
思いやりや慎重さに
心留めることも大事な気がする。
何かを教わっているような、師弟関係にある人や
自分の意を持たず、
「この人のいう事は絶対だから」と、
洗脳のスイッチがONになってしまうような
ある意味素直な人も多いということを
よくよく認識した上で
今、まさに放とうとしているその言葉を
今一度吟味し
ご自身が与える影響力というものについて
想いを馳せるのも素敵かもしれない。