イタリアの風に吹かれて ~con te partiro~

前世(かこ)から未来(いま)へと紡がれし時の記憶
あなたと交わした約束の欠片を辿る遥かなる愛しき旅

全ては自分で引き寄せている自己責任

2014年10月15日 17時08分00秒 | ハート♡の作品

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よく 「自分の周りには ろくな人が居ない」etc・・・・と

     ぼやいている人がいますが、それは

「自分はこんなにつまらない、ろくでもない人間です。」と

   自分のことを言っているのと同じである、と

       随分前、映像を通してある方が

 言ってらしたのを
聞きました。この言葉を聞いた時は、

抑揚をつけながらそう話されたその方のユニークな表情が

印象的で言葉よりもそちらに微笑んでしまったのですが、

      今春、色々な書籍を読み返す中で、

「全ては自己責任」というこの深くシンプルな言葉の意味が

    ようやく理解できた、というか、ある瞬間 

       あ と 腑に落ちた次第です。

  お味噌汁もそうですが、シンプルなもの程 難しい、

       私自身の体験になぞらえてですが、

      ほんとうに そのように思わされます。

        肉体を纏った人間なので、

   誰しも感情の起伏はありますが、それでも日々、

      安定した気持ちが持続し、穏やかに 

投げやりの荒々しい誤解を生むような言葉ではなく

聞いていて気持ちよい、心がスッと洗われるような

  あたたかで優しい言葉で話し、ありがとう、と

感謝言葉を忘れず 沢山使っている人の周りには、

 確かに 素敵な人たちがいつも集まっています。

     えっ?と 思ってしまうような人に

何日も続けて会ってしまったら、ただ運が悪い!と

    片づけてしまいますか? それとも、

  「相手に問題がある、とずっと思っていたけれど、

   じゃあ、果たして自分もこの人と同じものを

     発していなかったといいきれるの?

    日々使う言葉や態度がぞんざいになり

   投げやりで 粗くなかった?」と 今までは

    誰それさんのせいだ!とか、運悪く…で

片づけていたことを 素直に自分の言動を省みて

内観してみると決して相手のせいだけではないことに

        気付かれる気がします。

     マラソンもそうですが 先頭集団から

 あまりにも離れてしまうと、相手ランナーの姿であり

     試合運びが見えません。分かりません。

  人との関わりにおいても 同じような気がします。

  一斉に「〇〇の学びの道」のスタートをきっても、

      日々の意識や 練習、訓練次第で

  レースには大きな差(ひらき)が出てしまいます。

  癒えた筈の傷が 忘れた頃にシクシク疼くような

  悪縁、という痛みを もし抱えていて その縁を

     本気で 断ち切りたいと思った時は、

     ランナーが日々、努力をし 走り込み、

   先頭集団に入り、更にはうしろのランナーが

      全く見えなくなるまで 引き離し 

   ゆとりの中で 自分のペースで走るように、

  自己責任の元、わき目もふらず 鍛錬し続け

  振り返った時 相手の姿はもう見えなかった、

となるまで、日々、自己鍛錬をし レベルアップして、

 1度学ばせて貰った相手との学びは終了!と

    相手と交わらないステージへ行く!と 

   自分が強い意志をもって決定することに

         他ならないと思います。

膿んだ傷口のような悪縁を ずっと続けていく事も

    「学ばせて頂きありがとうございました」

     もう、同じ学びはしなくていいです」と、

     スパッと自分で切る(完了)するのか、

   どちらを選ぶのかは あなたの自由であり

  どんな人を引き寄せたのかは自己責任であり、

     あなたから放たれたものに共鳴して

   引き寄せられた縁でもあるとおもうのです。

   理想は皆仲良く、なのかも?しれませんが

  元凶(重し)になっている相手と関わることで

  イライラしたり、巻き込まれ 悲しくなったり、

  結果無理をして ストレスがかかっているのなら

  今生はこの関係を越えられなかったけれど、

   次(来世)は越えよう!と 宿題を残しても
 
   神さまは怒りません。神ではない私達は、

  出来ないことが 沢山あるのは当然のこと。

   出来ないことを 出来ます、と ごまかし

等身大の自分を放棄して
形だけ大きく見せようと

カッコつける方がよほどカッコ悪いように思えてならない

  そう思う どこまでも人間そのものの私です。