今、「同調圧力」という本を読んでいます。ベストセラー。鴻上尚史×佐藤直樹両氏の対談形式の新書です。
この中に書かれているに鴻上さんの意見、
「戦争は、軍部が暴走した結果ではない。結局、メディアや国民がその“空気”を作り出したことが最大の原因と思っています」
に、少なからず驚いてしまいます。私は、日清・日露で勝ってしまって日本全体が「アジア制覇、いけるかも」と気が大きくなってしまったことが、いけないのだと思ってましたが。
このあいだガダルカナルの戦いの特集番組で、生き残った元兵士の方が「戦争は、いつのまにか始まっていて、そうなれば誰も止めることが出来ない。だからそうなる前に、戦争を起こさないことが大事」と仰ってました。
「露営の歌」を作ってる頃の裕一さんも、どこか他人事のようでした。でも「いつのまにか始まって」暴走してしまうのです。
朝ドラ「エール」も昭和15年から18年に入り、そんな「空気」=「同調圧力」が、ジワジワジワジワと「古山家と仲間たち」を追い詰めていく様子が描かれます。
怖いですね。。。国のために尽くすのは、誰だって賛成だと思うけど、それが度を越して「強制」となってくると。
私なら音ちゃんの入った国防婦人会で竹槍作るのは嫌ですね。。。でも、隣近所でみんなやってて自分だけ「やりません」って言ったら非国民呼ばわりされるんだろうなあ。配給も差別されるとか。
華ちゃんと同世代の母の言によれば、「竹槍訓練なんかやってもアメリカに勝てるわけないとみんな思ってた。でも“やらねばならなかった”」。まさに同調圧力。
華やかだった食卓がどんどん貧しくなって、ご飯炊けずにカボチャだけって。
敵の言語=英語は使えず喫茶「バンブー」は「竹」に。音ちゃんが開いて順調だった音楽教室も、どんどん生徒がやめていきました。オルガンが来て楽しそうに歌ってた音ちゃんの笑顔が、曇って切ない日々が続きます。
裕一さんは国威発揚の曲ばかり求められ。。。「紺碧の空」が威勢良い応援歌であり、「露営の歌」が大ヒットしたので、「応援歌といえば古山」になってしまったのも皮肉です。木枯さんみたいな曲で大ヒットしてたら、軍歌のオファーは来なかったのかも。
古関裕而さんは自伝で「露営の歌」や「暁に祈る」「若鷲の歌」などを「戦時歌謡」と呼んでいます。「軍歌」ではない。
心情として「軍から命令されて作ったのではなく、あくまで民衆の心に寄り添ったものだ」と言いたいのだと思います。
なぜなら、芸術家は決して「上からの強制」では作品を作らないから。自らが望むもの、自分の奥底から湧き出るものでなくては、産み出せない。少なくとも古関さんはそういうタイプだったのでは。
オファーは断れない。生活はどうする!妻と娘を路頭に迷わせるわけにはいかず。
今が戦後だからこそ、「戦意を煽る音楽を作った」かのように言われてしまうこともありますが、あの当時の「作らざるを得ない」状況を受け入れ、同時に純粋に、兵士とその家族のために曲を書いたのでしょう。
また体力的に一番パワフルに創作出来る年代だし、「作れば喜ばれる」なら、次から次へ軍歌もとい戦時歌謡を作るのは、必然の流れであったと思います。
音ちゃんが「心で何を思うかは、自由だ」と.自分に正直であり続けることを選び、裕一さんは「でもこういう流れになった以上、自分に出来ることをするしかない」と、割り切る。
軍人さんの妻となりお国のためにすべてを捧げる長女の吟ちゃん、自分を曲げず小説を書いて出版社から拒否される梅ちゃん、新聞社で戦局の現実を知っているのに、それを正しく国民に伝えることが出来ず憤る鉄男、物資が無く遂に店を閉じる喫茶バンブー。
それぞれの思いが食い違い、美しい音の重なりにならない。だから「不協和音」というタイトルなのね。
バンブーのマスター・保さんが、「戦争って、人の本音をあぶり出すよね」とポツリと言ったこと。今のコロナ禍の世界でもあてはまる。
同調圧力で「県外に出るなんてけしからん。コロナをばらまくな!」という空気が醸し出されてるけど、「しっかり対策してるからいいじゃん」と思ってる人もいるし、「来るな!コロナめ!」と貼り紙する人もいる。
鴻上さんは本の中で、「日本は、だれかをおおっぴらに叩いていい、となったら、徹底的にSNS民が叩く風潮が出来上がっている」と書いています。
息が詰まりそうな時代は今も戦時中も似ている。。。そんな中、遂に裕一さんに召集令状が来てしまいました!
自伝でも本当に古関さんに召集令状は来るのですが、本名が「古関勇治」なので、軍局がまさかこれが「あの古関裕而」とは気づかず、本籍地の福島へ送っってしまった、となってます。
一度出した召集令状というのは取り消せないらしく、古関さんは出征することに。でも彼が東南アジアへ赴いていたのはこの召集の前で、ビルマ、ベトナム、シンガポールとまだ戦況が明るかった頃のようです。あの時代に慰問団が海外旅行できたものかと驚きますが、コロンビアやNHKは財力があったのでしょう。
この東南アジア見聞録の記述は、古関さんの自伝中でもっともダイナミックなパートで、芸術家らしい観察力と描写力が光ります★
この中に書かれているに鴻上さんの意見、
「戦争は、軍部が暴走した結果ではない。結局、メディアや国民がその“空気”を作り出したことが最大の原因と思っています」
に、少なからず驚いてしまいます。私は、日清・日露で勝ってしまって日本全体が「アジア制覇、いけるかも」と気が大きくなってしまったことが、いけないのだと思ってましたが。
このあいだガダルカナルの戦いの特集番組で、生き残った元兵士の方が「戦争は、いつのまにか始まっていて、そうなれば誰も止めることが出来ない。だからそうなる前に、戦争を起こさないことが大事」と仰ってました。
「露営の歌」を作ってる頃の裕一さんも、どこか他人事のようでした。でも「いつのまにか始まって」暴走してしまうのです。
朝ドラ「エール」も昭和15年から18年に入り、そんな「空気」=「同調圧力」が、ジワジワジワジワと「古山家と仲間たち」を追い詰めていく様子が描かれます。
怖いですね。。。国のために尽くすのは、誰だって賛成だと思うけど、それが度を越して「強制」となってくると。
私なら音ちゃんの入った国防婦人会で竹槍作るのは嫌ですね。。。でも、隣近所でみんなやってて自分だけ「やりません」って言ったら非国民呼ばわりされるんだろうなあ。配給も差別されるとか。
華ちゃんと同世代の母の言によれば、「竹槍訓練なんかやってもアメリカに勝てるわけないとみんな思ってた。でも“やらねばならなかった”」。まさに同調圧力。
華やかだった食卓がどんどん貧しくなって、ご飯炊けずにカボチャだけって。
敵の言語=英語は使えず喫茶「バンブー」は「竹」に。音ちゃんが開いて順調だった音楽教室も、どんどん生徒がやめていきました。オルガンが来て楽しそうに歌ってた音ちゃんの笑顔が、曇って切ない日々が続きます。
裕一さんは国威発揚の曲ばかり求められ。。。「紺碧の空」が威勢良い応援歌であり、「露営の歌」が大ヒットしたので、「応援歌といえば古山」になってしまったのも皮肉です。木枯さんみたいな曲で大ヒットしてたら、軍歌のオファーは来なかったのかも。
古関裕而さんは自伝で「露営の歌」や「暁に祈る」「若鷲の歌」などを「戦時歌謡」と呼んでいます。「軍歌」ではない。
心情として「軍から命令されて作ったのではなく、あくまで民衆の心に寄り添ったものだ」と言いたいのだと思います。
なぜなら、芸術家は決して「上からの強制」では作品を作らないから。自らが望むもの、自分の奥底から湧き出るものでなくては、産み出せない。少なくとも古関さんはそういうタイプだったのでは。
オファーは断れない。生活はどうする!妻と娘を路頭に迷わせるわけにはいかず。
今が戦後だからこそ、「戦意を煽る音楽を作った」かのように言われてしまうこともありますが、あの当時の「作らざるを得ない」状況を受け入れ、同時に純粋に、兵士とその家族のために曲を書いたのでしょう。
また体力的に一番パワフルに創作出来る年代だし、「作れば喜ばれる」なら、次から次へ軍歌もとい戦時歌謡を作るのは、必然の流れであったと思います。
音ちゃんが「心で何を思うかは、自由だ」と.自分に正直であり続けることを選び、裕一さんは「でもこういう流れになった以上、自分に出来ることをするしかない」と、割り切る。
軍人さんの妻となりお国のためにすべてを捧げる長女の吟ちゃん、自分を曲げず小説を書いて出版社から拒否される梅ちゃん、新聞社で戦局の現実を知っているのに、それを正しく国民に伝えることが出来ず憤る鉄男、物資が無く遂に店を閉じる喫茶バンブー。
それぞれの思いが食い違い、美しい音の重なりにならない。だから「不協和音」というタイトルなのね。
バンブーのマスター・保さんが、「戦争って、人の本音をあぶり出すよね」とポツリと言ったこと。今のコロナ禍の世界でもあてはまる。
同調圧力で「県外に出るなんてけしからん。コロナをばらまくな!」という空気が醸し出されてるけど、「しっかり対策してるからいいじゃん」と思ってる人もいるし、「来るな!コロナめ!」と貼り紙する人もいる。
鴻上さんは本の中で、「日本は、だれかをおおっぴらに叩いていい、となったら、徹底的にSNS民が叩く風潮が出来上がっている」と書いています。
息が詰まりそうな時代は今も戦時中も似ている。。。そんな中、遂に裕一さんに召集令状が来てしまいました!
自伝でも本当に古関さんに召集令状は来るのですが、本名が「古関勇治」なので、軍局がまさかこれが「あの古関裕而」とは気づかず、本籍地の福島へ送っってしまった、となってます。
一度出した召集令状というのは取り消せないらしく、古関さんは出征することに。でも彼が東南アジアへ赴いていたのはこの召集の前で、ビルマ、ベトナム、シンガポールとまだ戦況が明るかった頃のようです。あの時代に慰問団が海外旅行できたものかと驚きますが、コロンビアやNHKは財力があったのでしょう。
この東南アジア見聞録の記述は、古関さんの自伝中でもっともダイナミックなパートで、芸術家らしい観察力と描写力が光ります★