MとAのミュージカル・ラン日記 ♪♪♪

音楽を聴きながら走る市民ランナーのブログです。ランと音楽以外のスポーツについても書きます。今は大谷翔平に夢中です!

痛みに耐える訓練

2016-10-17 | 走りながら考えたこと
 このところ左足の(おそらく)腱鞘炎のせいでほとんど走れない日々が続いている。これまでにも何度も同じ症状に悩まされた経験があり、余り無理をしなければ---というか走り始めるとすぐにけっこうな痛みになるのでどちらにしてもあまり無理をしようがない---1~2か月でたいてい良くなる。これまでは右足ばかりだった気がするが、今回は左足である。

 レースでロキソニンを飲んで痛みを抑えて走ったことはあるけど、日常的なランで痛いのにわざわざ薬を飲んで走る馬鹿はいないだろう。私もそうだ。となるとこのタイトルはどういうことだ?!ということになる。

 無理はしないのだが、一番大きな意味としては「今どのくらい回復しているのか?」確認したくて少し走ったりする。今回もせいぜい1kmくらいしか走らない(走れない。走れるけどさらに痛みが増すから走らない)。で、少しは良くなっているのか、痛みはどの程度か確認する。

 以前走った100kmマラソンで、足が痛くてもう走れない、と観念し後半ほとんど歩いたことがある。「がんばれ!」と声をかけられても「これで精一杯なんです。痛くて走れないんです」と心の中で叫び、憤慨していた。そしたら近くを走っていたあるランナーが仲間にこう話すのが聞こえてきた。

「俺だって膝が痛くて痛くてもう走れないくらいなんだよ」

 その時、ほかの多くのランナーも激しい痛みを我慢して走っているんだと初めてわかった。ただ、外から見る限り「彼の痛み」はどれほどなのか私には永遠にわからない。

 私が出るような市民レースでは、国や学校を背負ってるわけでもなく、いつやめたっていいと言えばいいわけだが、それでもやっぱり痛かろうが寒かろうが多少は頑張る。つらいからと簡単にやめてしまうんではレースに出た意味がないからだ。別に我慢する前提で走るわけではない。大事なことは「何事にせよ、やると決めたら全力を尽くす」事だと思っている。
 人生で人からやらされて全力を尽くさねばならぬようなシーンはたまにあるかもしれないが、自らの意志で、自分から望んで全力を尽くすことなど普通はあまりない(偉人と凡人との差はそのあたりにあるのかもしれない)。
 私にとってレースに出るとは、つまりそういうことだから、簡単にやめるくらいなら最初から参加しないだろう。そしてもうひとつ大事なのは、全力を尽くせるように準備する過程である。
 出たとこ勝負で全力を尽くすのも、意味がないわけではない。やらないよりはましかもしれない。しかし、本当は、準備こそ心を鍛えるのにも重要なのだ。
 そう、マラソンを走る理由はいろいろあるけれど、その一つは「タフな経験をしておく」ということであり、そのための準備でタフさのレベルアップをはかり、逃げるわけにはいかない(実際には逃げ出しても怒られることもないわけだけど)実践の場で痛みや苦しさをどうにかこうにか克服していく経験をすることにあると思う(と書きながらはっきりそう思った)。
 普段のランにおいても(程度は別にして)痛みに耐えて走る経験をしておけば、レース中の痛みにも対応できるレベルが上げがるのではないか。そうしたことを望むするかどうかは人それぞれ自由だけれど。なんで痛いのに走らなきゃならないの?って人の方が多いかもしれない。いや、きっと多いだろう。他人に押しつけるつもりはない。
 ちょっと大げさに言うなら、人間てどんどん我慢しなくなっているから、我慢がきかなくなっている。その結果、とりわけ1960年以降凄いスピードでいろんな事が急激に変化し続けている。人口も二酸化炭素も何もかも増え続けている。警鐘をならしたって誰も止められない。
 フィリップ・マーロウ言わく。
 If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.
 マーロウはハードボイルドなロマンチストだ。優しさについてはまた別の機会に。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ガッキーの「恋ダンス」が気... | トップ | 4度目の北海道マラソン2016、... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

走りながら考えたこと」カテゴリの最新記事