秋のまつりが各地で行われています。今年も埼玉の所沢では、10月8日(日)に「所沢まつり」が開かれていました。
夕方、西武池袋線を所沢駅で降り改札口をでるとたくさんの人出です。ぶらっと出かけたこともあって、正直のところそれほどまつりの何かを見たいという思いはありませんでした。しかし、細長い風船を手にした家族連れや楽しげに話す若者のグループとすれ違ううちに、次第に心が浮き立ってきました。
駅を中心にいろいろなイベントが行われていたようです。
ふと遠くを見やると、向こうから山車を曳く子どもたちの列が近づいてきました。掛け声が聞こえます。次第に山車のお囃子の音が大きくなります。山車の上ではお面をつけた踊り手が舞っているのがはっきり見えてきます。そうなると、もうすっかりまつりに引き込まれている自分がいました。
なぜこうもまつりに引き込まれていくのか。まつりは、非日常の世界ということもあるでしょう。それよりも私には、まつりには自分が育った故郷の匂いを感じるのです。父と母とそして兄弟との思い出が浮かんでくるのです。
決して立派な山車があったわけではありません。屋台店で、欲しいものを何でも買ってもらえたわけでもありません。でも提灯や裸電球が照らす夜は、子ども時分の私にはわくわくする世界でした。親が傍らにいることで安心できる世界でした。今頃になって、他界した両親の子への思いに気づきます。辛さや嬉しさを思います。
ふと、自分の子どもとのまつりの記憶がほとんどないことに気がつきました。子どもたちが小さいときに、住んでいたところには山車がでたり屋台店が並ぶようなまつりがなかったということもありました。仕事のために私が家族と離れていたこともありました。でも、一番の理由は、子どもをまつりに連れていってやろうという強い思いがなかったのではないか。
そんな思いが錯綜する中で、まつりの人込みに、浴衣ではしゃぐ我が子の姿を見たような気がしました。
もっと手をつないでやればよかった、温もりを感じさせてやればよかった、まつりの記憶を刻むことができるようにしてやればよかった。喧噪さを離れ、乗客もまばらな帰りの電車の中で、そんな思いがこみ上げていました。
夕方、西武池袋線を所沢駅で降り改札口をでるとたくさんの人出です。ぶらっと出かけたこともあって、正直のところそれほどまつりの何かを見たいという思いはありませんでした。しかし、細長い風船を手にした家族連れや楽しげに話す若者のグループとすれ違ううちに、次第に心が浮き立ってきました。
駅を中心にいろいろなイベントが行われていたようです。
ふと遠くを見やると、向こうから山車を曳く子どもたちの列が近づいてきました。掛け声が聞こえます。次第に山車のお囃子の音が大きくなります。山車の上ではお面をつけた踊り手が舞っているのがはっきり見えてきます。そうなると、もうすっかりまつりに引き込まれている自分がいました。
なぜこうもまつりに引き込まれていくのか。まつりは、非日常の世界ということもあるでしょう。それよりも私には、まつりには自分が育った故郷の匂いを感じるのです。父と母とそして兄弟との思い出が浮かんでくるのです。
決して立派な山車があったわけではありません。屋台店で、欲しいものを何でも買ってもらえたわけでもありません。でも提灯や裸電球が照らす夜は、子ども時分の私にはわくわくする世界でした。親が傍らにいることで安心できる世界でした。今頃になって、他界した両親の子への思いに気づきます。辛さや嬉しさを思います。
ふと、自分の子どもとのまつりの記憶がほとんどないことに気がつきました。子どもたちが小さいときに、住んでいたところには山車がでたり屋台店が並ぶようなまつりがなかったということもありました。仕事のために私が家族と離れていたこともありました。でも、一番の理由は、子どもをまつりに連れていってやろうという強い思いがなかったのではないか。
そんな思いが錯綜する中で、まつりの人込みに、浴衣ではしゃぐ我が子の姿を見たような気がしました。
もっと手をつないでやればよかった、温もりを感じさせてやればよかった、まつりの記憶を刻むことができるようにしてやればよかった。喧噪さを離れ、乗客もまばらな帰りの電車の中で、そんな思いがこみ上げていました。
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