<本館と同じ明治41年建設の遺愛学院の宣教師館>
久しぶりに朝から太陽が顔を出した今日、「第80回箱館歴史散歩の会」に参加して来た。
いつもは西部地区が多かったが、今回は、函館市青年センターに集合して、東部の「千代台公園、時任町、杉並町巡り」だった。西部地区に比べてやや地味な感は否めないが、馴染みの少ないこちら方面の隠れた歴史の解説はとても新鮮な感じだった。
コース:津軽陣屋(千代ヶ岡陣屋)跡→函館重砲兵大隊跡→球聖久慈次郎の碑→斎藤與一郎書四字句碑→時任町記念碑→レニー先生記念碑→旧制函館中学校(現函館中部高校)→時任農場跡→ 緑町通り→YWCA→遺愛学院→千歳教会(解説あり)→市立函館高校→五稜郭公園
※この中から、印象的な物をいくつか・・・・
<千代台球場の正面横に昭和52年8月建立・故水原茂氏の筆による「球聖久慈次郎の像」>
大正11年の春、早大を卒業した久慈は、オーシャンの入部を目的に函館に来て、函館水電(現交通局)の営業係として就職。
昭和6年と9年に来日したアメリカ大リーグ選抜チームとの日米野球大会で、両年とも全日本チームの捕手兼主将として活躍。その後東京巨人軍が創設され、主将として入団の誘いを受けるが、大火に会ったばかりとすでに久慈運動具店を営んでいたことなどで断る。当時、三原や水原の給料が100円だったのに対し、久慈は500円で誘われたそうだ。断ったのにもかかわらず、今でも、巨人の「初代主将」として記録に残っている。
昭和14年8月19日、捕手の牽制球が右こめかみの上部分に直撃して2日後に逝去。
<時任町会時任為基ゆかりの地>
函館支庁長として、明治10年から11年間、函館に住み着き、いろいろ函館市発展の為に尽くした。日本人による最初の上水道の完成も彼の働きかけによるとのこと。一方、現在の本町・杉並町電車通りから大森浜にかけ、約50万坪の土地を購入し、洋式の模範牧場をつくるなど、明治初期の函館地方の開拓と発展に尽した功績は大きく、昭和6年、町名改正のときに、「時任牧場」にちなんで、そのあと地の一部に時任の名を残し時任町とした。函館中学校(現函館中部高校)の敷地を1万坪寄付している。遺愛学院の土地2.1万坪もこの牧場の敷地だった。
その後、宮崎県知事、元老院議官、高知県知事、静岡県知事、愛知県知事、大阪府知事、宮城県知事を歴任している。俳優の時任三郎は子孫にあたる。
<上記の時任町会記念碑の隣に建っているW・レニー先生記念碑>
カナダ人で明治39年からスパイ容疑で国外退去させられるまでの35年間、函館の地にあってキリスト教の伝道と社会福祉事業とや英語教師として献身。給料のほとんどを苦学生や貧しい人に分け与え、質素な生活をしていた。教鞭をとった旧制中学、商業、商船、師範、工業の教え子が浄財を募って昭和47年に建立。
<大正15年当時の面影を残す唯一のYWCAの建物>
当時渡辺熊四郎が250坪単位の当時日本一と言われた高級住宅街として分譲した緑町通り(三角通り)に残っている民家を昭和26年に買い取って、現在もそのまま使用されている。
<明治41年に建設され、元町から移転してきた遺愛学院>
当時のアメリカの建築様式を採り入れ、明治の洋風建築の数少ない一つとして、今でも現役で利用されている。明治40年の大火で、建築資材も焼けて苦労したらしい。
<新島襄の遺髪が残っている函館千歳教会>
現在、函館市が同志社大学に医学部の開設を依頼していることと、新島襄の妻八重が、来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公に決まって、新島襄や函館の登場も期待されている。
<千歳教会の牧師さんからの教会の歴史と新島襄とのゆかりについての説明>
新島襄が箱館から脱国してアメリカに渡り、帰国後、同志社大学を創立し、日本組合教会の礎を築いた。その日本組合教会函館教会が明治34年に設立されたが、たびたび大火で焼け、昭和12年に千歳町に「新島先生脱国記念会堂」として新築移転。その際に、同志社教会牧師堀貞一氏より新島襄の遺髪が寄贈された。
昭和17年に「日本基督教団函館千歳教会」と改称。戦後、現在の松蔭町に教会堂を再建して現在に至る。
<講師でもある箱館歴史散歩の会主宰中尾仁彦氏の著書『箱館はじめて物語(改訂版)』
1000円で、函館まちづくり交流センターや市内書店で販売中。
1000円で、函館まちづくり交流センターや市内書店で販売中。