癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

『くろふね』(佐々木譲著)

2015年12月15日 | 読書・映画

 先日、中央図書館中ら借りていた1冊だが、これは、箱館戦争で2人の若き息子とともに戦死した中島三郎助の一代記である、現在の中島町の由来にもなっていて、「中島三郎助父子最後之地」の碑が残り、中島廉売では「中島三郎助祭り」も行われている。

 この本を読むまでは、恥ずかしながら、どのような人物だったか、どんな人生を歩んだ人だったかは知らなかった。

 嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀沖に来航の折に、28歳の若さで、浦賀奉行所与力として、通詞と二人だけで、最初に黒船に乗り込んで折衝に当たるなど敏腕をみせ、翌年、日本最初の洋式軍艦・鳳凰丸を建造させている。その後、幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生として3年後に軍艦操練所教授方になっている。

 明治維新時には、榎本軍とともに行動し、開陽丸の機関長として、軍艦8隻を率いて北海道にやってきた。箱館戦争では、蝦夷共和国の箱館奉行所並みと最前線である千代ヶ岱陣屋守備隊長も兼ねた。最期は父子ともにその陣屋を守って49歳で戦死している。箱館戦争終結6日前のことである。

 三郎助の人生を通して、開国を迫る外国の圧力、やがて開国に至らざるを得なかった経過、そして、江戸幕府の大政奉還、戊辰戦争とその終末を迎えた箱館戦争までの歴史的な経過や背景が詳しく分かった。 

 興味深かったのが、彼を取り巻く当時の歴史上の主だった人物とのかかわりである。
 勝麟太郎(海舟)とは長崎海軍伝習所の同窓であったが不仲であったという(吉田松陰も記している)。伝習所を2年も落第し、卒業もできなかった勝のいい加減な人間性と世渡りの上手さを嫌ったようだ。
 桂小五郎(のちの木戸孝允)は、若いときに中島家に寄宿し造船学を学んだ。三郎助は小五郎の才幹を認めて家族ぐるみで厚遇した。これは、別の資料で分かったことだが、明治9年(1876年)、明治天皇の東北巡幸に随従して五稜郭に向かう途中、中島父子の戦死地付近を通過した木戸は往時を回顧し、人目をはばかることなく慟哭したという。
 榎本武楊は、長崎海軍伝習所以来の仲であり、三郎助父子亡き後も三郎助の三男・與曽八を養育している。

 この小説の最後の一行、「ペリーの来航から16年、日本で最初に近代と接した男が、最後のサムライとして、死んだのである」が端的にこの三郎助の生き方を表現している名文だと思った。
 
 俳人としても有名で、辞世の句は「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」「われもまた 死士と呼ばれん 白牡丹」の2句とのこと。すでに死を覚悟していた句でもある。

 この本を読み終わった今日、中島町にある「中島三郎助父子最後之地」へ出掛けて、カメラに収めてきた。

 この標柱は交差点にあるので良く目にしていた。


この石碑と説明板を目にしたのは初めてだったった。墓は浦賀の東林寺にあるという