瘡痂(かさぶた)と薬師如来と雅成親王

2009年07月26日 | ふるさとの話
           (現在の「かさのふた峠」は立派な舗装、
                    左手下の谷には残土を埋めての大工事)


右手の肘(ひじ)の傷が治ってきました。
半月程前、暗がりの歩道で転倒してしまいました。ミゾが浅くて助かりましたが、あちこちにかすり傷、肘の傷は血だらけでしたがやっと治り、瘡蓋(かさぶた)もどんどん縮んできます。
気になる瘡蓋をさすりながら、大岡のTさん宅から帰り道、「かさのふた峠」を通ります。
「かさのふた峠」は、日高町八代から大岡に抜ける峠、「かさのふた」の名の由来は地元では誰でも知っていますね、雅成親王伝説の一つなのです。

雅成親王は後鳥羽天皇の第四皇子、承久の兵乱の責任を追及され但馬国に配流され、今から756年前の建長七年(1253)に豊岡・高屋で55才の生涯を終えられています。
雅成親王伝説は三つあり、
若き后の不遇な死を祀る、「松岡地区のばば焼祭(御鉢焼)」伝説、
大岡寺の薬師仏の霊感を夢で接して、后の王子を拾い受ける、「上郷地区の山崎三郎右衛門の赤児授かり」伝説、
そして、「瘡の痂嶺(かさのふたとうげ)」伝説です。
八代村史には、「瘡の痂嶺(かさのふたとうげ)」伝説が、ほぼ似通っていますが二説記述されています。

雅成親王が瘡(かさ)を患って、大岡山の薬師に祈られたところ、夢中に「村雨はただ一時のものぞかし、その蓑笠(みのかさ)をそこにぬげおけ」とお告げがあり、親王は大岡山よりの帰路、瘡(かさ)の病が忽(ただ)ちに癒(い)え、フタの落ちた所を、「かさぶたとうげ」という。

もう一つの説は、
同じく大岡山の諸薬師の霊験高き事を聞かれ、17日間参籠(さんろう)された。しかし瘡(かさ)の病気が本復しないので、お帰りになる道すがら、「南無薬師諸病悉除の願たてて、身より仏の名こそ惜しけれ」と口ずさまれたところ、薬師仏が「村雨はただ一時のものぞかし、己が蓑笠(みのかさ)そこにぬげおけ」と返歌すると、親王の瘡(かさ)の痂(ふた)は、たちまち落ちて、親王は平癒されたといい、今にこの道を「瘡の痂嶺(かさのふたとうげ)」という。

そんな伝説を秘めた「かさのふた峠」は、只今、円山川の工事残土で谷を埋める大工事真っ最中です。
この伝説、どうも大岡寺の本尊である薬師如来の霊験を、かくもあらたかなものだと農民に説き立て、大岡寺に対する信仰を燃え立たせようとした話ではないかと、日高町史は記述しています。
いつの時代でも、貴い人の事績を手がかりに民衆を引き付ける話は作られるのですね。
古~い自民党と云う瘡蓋(かさぶた)がポロリと剥がれる、
それだけでパッと明るい世界が開けるような、民主党の「政権交代・国民の生活が第一」の伝説、ほんまかいなと首をかしげますね。
明日27日は、民主党のマニフェストが発表されます。
自民党にしても民主党にしても「公約」をどうして「マニフェスト」と呼ぶようになったのでしょうか。
明日は、「マニフェストの危険」について書いてみたいと思います。