桂小五郎と、久畑(くばた)の関所、

2009年11月06日 | ふるさとの話
             (桂小五郎、人生最大の危機脱出は、
                        145年前の久畑の関所なのです)

豊岡市はとっても広いです。
昨日の午前中は竹野町の森本中学校に、午後は但東町久畑(たんとうちょう・くばた)の高橋小学校へストーブの配達です。
どちらも豊岡市なのに、竹野の端から但東の端まではちょうど大阪府を縦に走り抜けるくらいの距離、
兵庫県一広い町、豊岡市はメチャメチャ走りでがありますよ。

高橋小学校のすぐ隣、そこには桂小五郎であまりにも有名な、「久畑(くばた)の関所」跡がありますね。
西郷隆盛、大久保利通と並び、維新の三傑と称された木戸孝允、若き日の名前が桂小五郎、その人物のお話なのです。
元治元年(1864)の7月18日夜、京都は蛤(はまぐり)門で戦端が開かれた、世に云う禁門の変、
会津・桑名・薩摩の連合軍と戦った長州藩、結果はボロ負け、長州藩士はばらばらに遁走、
その一人桂小五郎は、但馬・出石の広戸甚助の手引きで但馬へ逃げ延びましたね。

出石藩の目が光る、「久畑の関所」で詰問される桂小五郎、人生最大の危機です。
それを救ったのが広戸甚助、「この者は居組村の者で、私の雇い船頭で怪しい者ではありません」と、機転を利かせて危機脱出、
その後、新鮮組の追手を逃れて出石や城崎温泉にしばらく潜伏生活、
「逃げの小五郎」と云われるだけあって、長州へ無事逃げ帰れたわけです。
そんなゆかりの「久畑の関所」跡、昔の山道に代わり立派な国道が伸びています。

帰り道は、久畑から佐々木へ山越え、道路を平然と鹿が横切ります。
幾度となく横切り、当たれば車もへこみます。
145年前、小五郎の但馬への遁走、その頃も山道には鹿がいたのでしょうか、いなかったのでしょうか。
佐々木への道すがらそんな事を思います。