お盆の休みです。墓参りも済ましたし、家内と二人でちょっとぶらりとドライブします。
出掛けるとなると、なかなか準備に手を取られスッと出来ないのがいつもの癖で、私はエンジン掛けて、エアコンで車を冷やして待ちますね。
ラジオから聞こえます。「黙祷~」と、大きな声の合図です。
すぐにプップップッ~と正午の時報、少しの静寂の後でアナウンサーの声、「戦没者追悼式が行われています日本武道館です。7,000人の参列者は起立し黙祷です」、それからもラジオの静寂が続きます。
熱いハンドルを握りしめ、頭を垂れます、黙祷します。
空を見上げると、青空と雲のまだらですが間違いなく真夏の空、照りつける日差しは真夏の正午の強さです。
65年前の玉音放送も、同じ真夏の暑い正午のことだったのでしょう。
「日本の一番長い日」というタイトルの映画もありました。そんな風に呼ばれています一日は、昭和20年8月9日であったり8月14日であったり、15日であったかもしれません。
7月26日にポツダム宣言が発表されてから、8月15日までの20日間は日本にとって毎日毎日が「日本の一番長い日」だったことでしょうね。
雑誌S誌9月号に掲載の、「迫水久常氏(さこみず・ひさつね 元鈴木貫太郎内閣書記官長)の知られざる講演テープを発掘!!」の記事によりますと、昭和20年8月9日の「日本の一番長い日」の貴重な証言が書いてありますね。
歴史に残る、昭和天皇の御聖断を仰いだ宮中の防空壕の中での御前会議の様子です。
ポツダム宣言の回答を、ソ連の仲裁の返事を待ってからにするという立場で、「ノーコメント」とした筈が、翻訳段階で「黙殺」となり、それを「拒否」と受け取られてしまった結末、
8月6日には広島に原爆投下、御前会議の準備が整った8月9日の午前2時に、ラジオが伝えるソ連の参戦、
仲裁の返事を待つの、日ソ不可侵条約がどうのなんて、弊履のごとく打ち破るメチャクチャな事態、追い打ちかける長崎への原爆投下、そんな中での午前10時の閣議です。
陸軍内部への深い深い理由から、阿南陸相の戦争終結への反対で鈴木内閣崩壊の危機なのでした。
とうとう天皇陛下の御聖断を仰ごうと、深夜は11時45分からの御前会議の凄い状況の告白なのです。
詳しくはS誌の内容をご拝読されたらと思いますが、陸軍の森近衛師団長を斬殺するクーデター騒ぎや、御前会議の後の阿南陸相の自決など、大混乱の「日本の一番長い日」だったのです。
そんな辛苦の中から生まれた玉音放送、それも8月14日にしないで8月15日にしたのです。
65回も、その日を繰り返し繰り返し迎えることも、わが故郷の斎藤隆夫の言葉ではないが、「本当に死んでいった310万の戦没者に、顔向けできる日本を築いているか?」の問いかけを、真剣に考える私たち自身の終戦のけじめの日なのでしょうね。
《平和な日 想う昔の 辛苦な日》