散歩絵 : spazierbilder

記憶箱の中身

シルベスター

2005-12-31 10:34:58 | 思考錯誤
1582年にグレゴリオ歴が導入され、年の最終日が12月24日から12月31日に移された。
名前の由来は12月31日がシルベスター教皇(335年12月31日没)が逝去した日である事からきている。 (SilvesterのSilvはラテン語のWaldで、“森に住む人”の意。)
シルベスターには悪霊払いの花火があがる。 
最近では花火の質が向上するにしたがって、年越しの夜空に美しい花が咲くようになった。
大晦日には鯉を食べる慣わしがあったり、お決まりのお菓子を食べることもある。
丁度日本で、年越し蕎麦を食べたり、正月にもちを食べたり、そんなことに似ている。
また、パーティーの余興にブライギーセンという„鉛占い“があって、ちょっと楽しい。
重金属の鉛を“背にのしかかる重荷”として、行く年に置き去るという意味も重ね合わされるようだが、いつ頃からこの慣わしが現れたかは定かではない。しかし鉛占いは古来から行なわれてきた占いである。  
中世になって鉛を様々なモチーフの型に流したものが流行したらしく、中世の印刷機の発明家グーテンベルクがそれに関与していたという話もあるようだが真偽の程はわからない。 
この鉛のモチーフを匙の上に載せて火にかけすっかり溶けたところで、水の張ったボウルに落し、冷え固まった鉛の形を見て占うのだ。
例えばハートの形をしていたら、来る年に恋に落ちるだろうとか、花の形なら、新しい友人が現れるだろうとか、三角は資金繰りが良くなるとか、そんな事が添えられた占い表に書かれているのだ。 
その形を蝋燭の火にかざして壁に映る影を見ながら占いに興じたりもする。 
鉛に毒性があるので今では錫やワックスが使われるようになった。 
水の中に落とし方が悪いと、バラバラと沢山のしずく型が沈んでいるだけとなったり、たくましい想像力を働かせても特定の形が見えてこない代物が出来上がってしまい、しいて言えば翌年流す涙か、冷汗かと言う感じになったりする。 

今日は雪が降るとも雨が降るとも予報が出ていて、湿気た寒さは確かなようだ。
昨日友人があらかじめ今夜の為に赤ワインを届けてくれたので、そろそろ壜を開けてワインに今年の空気の中でゆっくりと呼吸してもらおう。

皆様どうぞ良いお年をお迎えください。 新年が素晴らしいものをもたらしてくれる事を心から祈ります。

12月24日

2005-12-27 13:38:03 | 飲食後記








記録:2005年12月24日の晩

美味しく食べてお腹が
これこのようになって
しまったので、仕方なく
サンタクロースに変身
。。。。。。。。。。。。。

 

 

 

特記:


”ポン ポン ホワイト”
Hericium Erinaceum

こんな茸を見つけたので食べてみる事にした。
私は始めてお目にかかった茸である。
クリーム色の細い巻き上がったような房が毬のようだ。
もちろんこれを見つけたのは近所の森ではなく、
マーケットであって食べられる事はわかっているが
如何に料理するかは不明だった。
ソテーにするのが、間違いなさそうなので軽く塩コショウで付け合せ。
食感はどことなく肉のようにしっかりしていて、ほのかに苦味があった。
しかし特徴のある味は無い。
和名:山伏茸(山伏の衣装の飾りから)の別名がある。
中国名はホウトウクウ (テナガザルの頭の形の茸)
健康食として優れ抗がん作用あり、健胃、抵抗力増進など、他にも様々な効用があるようだ。


EST

2005-12-26 17:00:13 | 思考錯誤

急に手元が暗くなって、私の視神経はついに異常をきたしたかと驚いて外を見たら。
空の色が黄色身が勝った灰色になっていて、見る間に雪が舞い始めた。 湿気た雪空。
こういうときには部屋の中をガンガンに明るくして元気な音楽を聴く。
Esbjoern Svensson Trio ”Good Morning Susie Soho” を聴いている。 
日本でもこのトリオの公演があったようなのでジャズファンであればスウェーデンのE.S.Tの名は聞き覚えのある人も多いのかも知れない。
このアルバムを聴きながら短いインタヴュー記事を見つけた。
(聞き手:Dirk 以下Di、 E.S.T : Esubjoern, Magnus, Dan 以下E. M. D)

Di:  日本、カナダ、アメリカへのツアーから帰ってきたかと思ったら、明日はイタリア、スイスでの公演が始まるって聴いたけど、 スウェーデンのビール一杯がいくらだかもう忘れたんじゃない?

E:  そりゃもちろん。。。ええっと。。。(以下スウェーデン語に切り替わる。)

M:  いずれにしろ、4ユーロ以上だな、大抵それより高いけどさ。俺達どっちにしろドイツのビールの方がすきだね。

Di:  ところで日本はどうだった?

D:  なんだか、ポップスター並でね、下にも置かないって感じの扱いうけたんで驚いたよ。周りの人たちはいつも細心の注意を払ってくれて、礼儀正しくって親切だったよ。 もちろん飯もうまかったなあ、寿司ね。

M:  。。。。礼儀正しい寿司。。。。

Di:  トルコはどおだった?

E:  イスタンブールしか入らなかったけどね、皆親切で暖かかったよ。

D:  。。。それでもって飯が素晴らしかったね。

Di:  それじゃあ、イタリアなんかも良かったんじゃない?

D:  ああ、もちろんだよ! イタリアの飯は最高さ!

E:  彼等は全くもって素晴らしい食文化をもってるなあ。。。

M:  。。。それからさ、グラッパ! グラッパを忘れちゃいけない。。。

E:  。。。もちろんさ。

Di:  君達飯がうまいところを選んでツアー組むのかい?

E:  いいや、違うけど色んな国で色んな素晴らしい食に出会うのって面白いもんだね。

Di:  それじゃあ、イギリスはどうかい? 彼等の食文化さ?

E:  ううん。。。まあね。でも。。そう、ロンドンはインターナショナルなものが食べられるしね。

D:  それから、イギリスのビールは旨いよ。それで食事の事はチャラに出来るね。

M:  。。そうだなアイルランドじゃギネス飲めるし、スコットランドじゃ旨いウィスキーがあるもんな。

Di:  ところで君達の活躍についてなんだけど、あっちこっちで賞もを貰って凄い評判だけどそれについてどう思ってる?

E:  賞を貰うと、でかいパーティーが開かれてさ、皆親切にしてくれるわけ。だけど翌朝目が醒めると今までとなあにも変わってないわけよ。 練習したり、なんだかんだやって、音楽をやるって事。 まあ、あんまり変わらないみたいだね。

M:  今回は8枚目の録音だけどさ、兎に角僕達は続けるって事だけ。。

(これ以上書くのも又退屈かもしれないので以下省略)

なんだかインタヴューの3分の2は飯旨い、酒旨いの話で盛り上がった様子で、個人的に好感度高し。 

このアルバムもなかなか良かったです。

ちなみに彼等の好きな音楽のなかにはディープ・パープル、ポリスやラディオヘッドだそうだ。 

さて、それでは私も美味しい物をいただくことにする。


仮想パーティーへの招待

2005-12-23 14:36:47 | 思考錯誤
この時期は孤独な人たちが憂鬱になる時期でもある。
閉ざされた商店街、人っ子一人いない木枯らし抜ける街中は全く森閑としてしまう。
普段離れた家族が集まって談笑しているような家の窓は明るく光がこぼれている。
そんな日に一人でいるのは確かに淋しいきわみである。
旅行に出かけてしまう人も多い。
昔は映画館までしまっていたのだけど、今年は24,25,26と開業しているのを見つけた。悪くない。 (ちなみに私は料理の支度で明け暮れる。)

「クリスマスなんて脂っこい物や甘い物をしこたま作って、これ以上喰えないというくらいに喰いまくって、挙句の果てに口論が始まって喧嘩よ。いいこと無いね。」
と友人は笑いながら言う。
「はっ! クリスマス! うんざりだね。」
と言い切る人にも会った。
案外似たような事を言う人が多いのだけれど、実際のところはそれでも片寄せあう家族がいる事は幸せかもしれない。
悲劇に展開するケースも多いらしいけれどね。
そうかと思えばこの日を大事に思う人たちもいる。

何でもクリスマスの口論のきっかけで色々ある中の7番目に
”クリスマスツリーがひしゃげている”と言う理由があがっていて面白かった。
こうなったら理由なんて何でもいいわけですね。
”玄関の靴が斜めに置いてある”とか”コーヒーがぬるい”とか何でもきっかけになりうる。
クリスマスの別名は”愛情の祭り日”(Fest der Liebe)なわけだけど、逆方向に暴走する事もあるという話。

どうぞ皆さん、静かな暖かいクリスマスをお送りください。

PS:
24日の深夜は仮装ならぬ仮想パーティーをしましょうか。
仮想プレゼント希望の方、手を挙げて! 

何?
まあ、”仮想”って事で絵に描いた餅送ります(?)



 
去年の事だけど、ポーラーエクスプレスの中に出てきたキャラクターグッズのオマケが大きなチョコレートボールから出てきた。
中央がスティーヴン・タイラーなのは見まごう事なしだったけど、映画を観ていなかったので何の事やらわからなかった。 先日”ポーラーエクスプレス”を観たけれどスカスカでふわふわのお菓子を沢山いただいた様な感じで今ひとつの感あり。

無花果型火山弾うずまき文様

2005-12-23 11:01:42 | 収集物品


「こんなものをクリスマス市で見つけた」と友人が小さな火山弾を持ってきてくれた。
幾つか火山弾を持っているが、こういう表面を持っている火山弾ははじめてみた。
化石のような渦巻状の模様が表面に散らばっている。
丁度形も大きさも無花果のようなので"無花果火山弾うずまき文様”と命名した。
色々な半貴石のアクセサリーの脇にこんな化石をゴロゴロと箱の中に大きさで仕分けして売っている店で、頼むとこの火山弾を半分に切ってくれる。
中にどんな結晶が見られるかはあけてのお楽しみと言うわけだ。
「必ず切ってもらいに行ってね!そしたら見せてね!」といわれて約束していたのだけれど切らずに仕舞った。 
本当はその店まで行ったのだが、やはりそのままもって帰った。
なぜなら、このままがとても魅力的だし、中に何が入っているかわからないところで勝手な想像を膨らませることも出来る。
たいがいが透明無色の結晶の赤ん坊みたいなものが内壁に張り付いているようなものが多いようだけど、ひょっとしてこの石の中には何か違うものが入っているかもしれないと考えてみる。 
後でこの表面を少し磨いてみてもいいかもしれないけど、とりあえずこの火山弾が秘めている"世界”はそうっとこのままにしておこうと思う。
だから、"中身をみせられなくでごめんなさい”と謝ることにした。



カナリア諸島ランザローテの火山弾。黄緑やピンクのオリーヴィンが見つかる事が多い。





宮沢賢治の気のいい火山弾と言う小品を見つけた。

年末行事

2005-12-21 12:38:04 | 飲食後記
どんなものにしようか?
このところ毎日そればかり考えている。
やはり、あれは技術的に無理だし、道具と材料に不足がある。
これは前から作りたかったタイプだからこの際に是非やってみたい。
だけど、あれとこれはうまい組み合わせとはいえないなあ。。。ちょっとバランスが悪い。 色合いも退屈になるのが不満だ。
その場合、これとそれはピッタリかもしれないけれどでもこの間既に作ったタイプで面白くない。
どうしよう?

何を毎日考えあぐねているかというと、
料理のメニューである。

年末になると極親しい友人達を呼んで会食する事が普段より多くなる。
何も年末に集中することは無いのに、どうもそういう風になってしまう。

昨晩もそんなことで中華方面に向けて発進した。 
料理人二人が腕を振るって、というよりぶん回し、飛び交う匙、箸、お玉や鍋蓋、罵声の間を軽快なフットワークですり抜けつつ、ほぼ出来上がった頃には急にくだびれてベットに倒れる事5分。
何でこんなことで疲れてしまうのだろうかと情けなくなる気持ちを私の得意な包丁捌きでみじん切りにして、仕事部屋の汚い作業台をあれやこれやで見栄え200%アップに心を砕いた。
どんな物が出来上がったかと言うと、
鶏がらと野菜をぐつぐつ煮込んでコラーゲンたっぷりのスープにレモングラスを一本入れて香をひき出したところに、エビ入りワンタンを入れたり、ぱりぱりのエビ・豚肉いり春巻き、揚げ鶏とパイナップルの煮物やユリの花の炒め煮とサラダにしょうが入り御飯である。 
今回のスープはほのかなレモングラスと生姜の香が引き立てあい鼻に抜けてゆく柔らかな香がとても良かった。
おかげで興に乗って喋り続け、あっという間に夜は深けて夜中の3時頃にはふらふらになった。 (その上またもや喉が痛み出す。)
ふらふらになりつつも次なる計画は日本食だ。
この日の客は食べ物にうるさいような事を言う割には、時々驚くべきものを食べさせてくれる人なのだ。 
例えばリゾットがかろうじて踏ん張っているかのような握りに分厚い魚が乗った寿司などである。 流石の私もこれには負けた。 
「どお? 美味しい?」と聞かれて皿の上に突きまわして崩れた飯と魚の切れ端を見やりつつ、返答にもがき苦しんでいる日本人の図を想像してください。
「ええっと、この魚はどこで買ったの?」「なんというお米を使った?」と質問に質問をぶつけてもはぐらかし切れず「実に新しいタイプの寿司スタイルだと思う。」という私の返答をどう受け取ったかは不明です。
幸い立食パーティーだったので、ドサクサにまぎれて皿を取替えクラッカーや人参ばかりを齧ってすませた。 
不思議なのは彼等も日本料理屋で寿司は何度も食べている筈なのに、どう見てもリゾット寿司と正統派寿司の差をそれほどに理解していないように見受けられた事だ。 これと同じ現象は他にも私の周りで2,3観察されているので面白い。 
面白いけれどもやはりリゾット寿司や石礫握り、直径1cmの葉巻型海苔巻きなどを食べさせられる身になると少し辛いものがあるのですね。
思わず驚きの寿司体験に話が流れて消えそうになるのを軌道修正。
何を作ろう?
兎に角和食分野に分け入って見るつもりだ。 やはり寿司には寿司で返答すべきか? または家庭料理というのも悪くない。  
中華料理、和食の晩が終わると次は西洋に引き継がれる。
料理好きの友人等と作業分担して普段作らない料理を作る事にしていて、大まかなラインはもう既に決定している。 
去年は用意したメニューを食べきらずに明け方になって一眠りし、その昼過ぎに最後の一品(彼女の友人が仕留めた鹿の肉)を料理してお開きになった。
 これがその時のお昼御飯! 
鹿肉ステーキ、マルメロ、むらさき玉葱の蜂蜜煮など。

今年はもう少しアッサリと行きたいと思う。 
まあ、何を食べるかより親しい友人等と楽しいひと時を過ごす事が大事な目的なので大騒ぎする事も無いのだけど、こうして"楽しいストレス”は年末行事の一つでもあり、それも良いものだなとおもう。


昨日の彼女達の一人は磁器を扱う陶芸家。
これはその彼女の器
片割れの彼女はアーティスト。


オマケ

中国食材スーパーでこんなものを見つけ、
面白がって一つ試してみたが、
もう二度と手を出す気がない物。
オリーヴの砂糖漬け。。。珍味。


冬の色

2005-12-18 23:19:33 | 思考錯誤
薄っすらと霞のように霜が降りた。雪の日よりも凍てついて固い空気はコンコンと指で叩くと音がするかもしれない。

。。。と4,5日前に書き始めたけれど、
昨日今日は雨模様で、凍った空気は雨に溶けた。

。。。と一昨日書いたけれども、
又雪が降った。
昨日は又,吹雪で地域によっては道路がスケートリンクのように3cmの氷が覆ってしまった。


黒いヴィオラは少し色褪せはじめたけれど、毎日一つ二つと咲き続ける。葉は半分凍って萎れたようになっているのに、少し痛手を負いながらも花はしゃっきりと咲いている。 
外に出ては寒い寒いと大騒ぎをして、あわてて暖房器具に張り付いている寒がりの自分がすこし恥ずかしくなる。



夏の間白い半球の帽子のような花房をいくつも付けた白いアジサイが、立ち枯れして繊細な蜻蛉の羽のような花びらの葉脈が、ふんわりという感じに残っている。
初夏には、まるで見つかる事を嫌って偽装するような薄緑色の花びらが開きだす。
緑から白へ。。
そして薄い羽はそのまま空に舞い上がる日を待っている。

今日は今年最後の展覧会終了。 
片付けも終わった。 

第4アドヴェントが終わろうとしている

夢見る孤独な僧の話

2005-12-16 10:12:42 | 思考錯誤
心に残る人物達 その2

先日、あるドキュメントを見た。 その話の覚書。


長年のきつい土方仕事で彼は体を少しずつすりつぶしている様に見える。
痩せた顔には沢山の深い皺が刻まれてその年月を語る。
日々石を一つ一つ積み上げて行く作業は祈りに似ているのかもしれない。
正確に祈りそのものなのだろう。
「私は共を必要としてはいないよ。友と語る時間は私には無いし、この聖堂を建てること、それだけが私の人生だからね。」と言い終えてから、うつむいた横顔は一瞬寂しそうではなかったか? いや私の勝手な想像だったかもしれない。 私なら耐えられないだろうと想像するから。。。
彼が友を必要としなくても、人は彼を訪ね、彼の情熱の余熱を心に抱いて帰る。
Justo Gallego Martinez
Madrid近郊の街Mejorada de Campoに、たった一人でカテドラルを建てようと決心し40年間をそれに捧げている77歳のトラピスト僧がいる。

 
かなり形が現れてきたとはいえ、幅25m長さ55m高さ50mのカテドラルである。
地元の青少年等が小遣い程度の代償で手伝う事があっても、朝から晩まで孤独に黙々と憑かれた様に彼が作業を続けていても、中央丸天井の裸の鉄骨は、それが覆われて完成する日がまだ遠い事を告げている。 
建築に素人である彼は写真やテレビに写される世界のカテドラル、スペインの城を参考にしたという。
もちろん図面は無い。
しかし彼の頭の中には既に彼のカテドラルは存在している。

ニューヨークのMOMAがこれに聞き及び、彼のカテドラル建築ドキュメントの展覧会を開いたり、スター建築家のフォスターも彼を表敬訪問している。
コカコーラ社のスポットに出演する事で40,000ユーロが建築費に加わった。ニューヨークタイムズや放送局”Arte”なども寄付に参加している。  
とは言え、彼がこれからどれだけ作業を続けられる事か?  

彼がカテドラルの完成を見る事が出来るかどうか、回りが気をもんでいるのに対して
「カテドラルを建て終える事が目的なのでは無いよ。 作る事、作業する事が目的なのだよ」
「私は死を恐れないよ。むしろ死は私を解放してくれるありがたい恵みだと思っているよ。死を迎えるのは悪くないと思っているよ。大分くたびれたからね。」
と彼は少しだけ微笑んだ。

頭にタオルをターバンのように巻きつけ、全身埃にまみれた彼の姿は、ともすると広大な瓦礫のなかに溶け合ってしまう。

そしていずれはカテドラルの一部となる日が来るだろう。

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この話からある他の建造物を思い出した。
Watts Towerと言う建物がロスアンジェルスにある。サグラダ・ファミリアのような趣のタワーを、作者が何を思って作り上げたかは不明だがある種のモニュメントである。
40歳のサイモン・ロディアが瓦礫だらけの土地を安く手に入れ、彼のヴィジョンである"Nuestro Pueblo-我々の街”を作り始めたのは1921年だった。昼間はタイル工場で働き、夜はタワーを作る生活が33年間続いた。
タワーが出来上がった日、隣人に土地もタワーも全てを託した後、ロディアは突然消えてしまった。 
数年後サンフランシスコで偶然彼を見つけた人がおり、何故塔を作り、何故捨てたかを訊ねても彼はただ「やりたかったから」と答えたという。
ロディアはまさにヴィジョンを受けて、自分でもなんだかわからない湧き上がる情熱に動かされたのだろう。 彼はそれを終えて燃え尽きたのだろうか? 彼はその後2度とタワーを訪ねる事も無かったという。 

2005-12-13 18:42:10 | 映画の話
読書の冬ではあるけれど、映画の冬でもある。 レンタルDVDを借りてきたり、TVで放映された映画の録画などをせっせと見る。 

監督スパイク・ジョーンズの映画"マルコヴィッチの穴”(1999年製作)は不思議な映画である。
意外な発想の展開だけでどんどん押してゆく話が面白い。 思いつきを振り回しているだけじゃないと言う意見も多いけど、あまり硬い事は言わないで楽しく見るたら良い映画だ。 私は結構楽しんだ。
失業中のさえない男(人形遣い)がある会社に就職する。事務所はビルの7階半に存在して、天井が低いので皆体を折り曲げているのが可笑しい。半階分の空間ではまっすぐに立って歩けないのだ。(想像しただけでも狭い穴倉で背筋を伸ばしては働けないと言うのは拷問と同じだ。)
ある日の事。彼は不思議な"穴”を棚の後ろに発見した。その穴に入ると“ジョン・マルコヴィッチ“の体の中にぶち込まれるのを知って、彼と彼の片思い相手の女同僚は、200ドルで15分間のマルコヴィッチ体験という裏商売を思いつく。(まあ、このくらいしか穴の利用法は無いわけだけど。)
そこから私生活が急変、転落してゆくのを彼には支える力が無いのが悲劇の始まり。

15分間他人になれる事が魅力なのか、15分間有名人になれるのが魅力なのか、それとも"マルコヴィッチ”を体験する事が魅力なのか? (問:私なら200ドル持って15分マルコヴィッチ穴に入りたいかどうか? "穴"自体の存在が不思議すぎるから、一度体験してみるかもしれない。)
穴に入る=マルコヴィッチ化する事は、200ドルを握り締めていそいそと集まる人々にとって、単に未知の世界(セレブの世界、異なる階級)を覗き見するだけのことである。 そのほかには何も起こらないのだ。 
まあ、結局のところ他人の皮を着るのは苦しい事かもしれないから適合しない、異物は15分もすると汚物の如くポイと排泄される。 
主人公の妻はこの"穴"体験に魅了され、やがてマルコビッチとしてで出会った女性(ちなみに主人公の片思いの相手)に惚れ、マルコヴィッチの体を利用して15分の逢引を重ねた結果子供まで作ってしまう。 彼女の場合、他人になる事で新たな自己発見をするという展開があったわけだけど、他の人間は15分間遊園地で遊ぶ気分で満足して帰るのだろう。
やがて主人公はマルコヴィッチを操る術を習得し体を横取りしてしまう。
結局彼はマルコヴィッチを乗っ取るポテンシャルを秘めた人物であり、チャンスを掴む才能があれば活躍する名人形遣いとなる可能性を秘めていたのに、欠けている物がある。その"外側”の大きな変化に対して"内側”の変化は大して起こらなかったのに違いない、当然破綻はやってくる。。。
この破天荒なストーリーは一体何を言いたいのかと突っ込むより、面白い夢でも見ているつもりになって展開を楽しみ、それぞれが適当に気になるポイントを引き揚げながら勝手に解釈して楽しんだらそれでいいんじゃないかと思う。 
しかし、穴がジョン・マルコヴィッチのものであるところは、実にうまい選択だと思う。 私は割合この人の存在感が好きだ。 
ちなみにマルコヴィッチ本人が自分の穴に入ると、かなり困った世界になる。 
脚本家チャーリー・カウフマンは"マルコヴィッチ”と言う名前の響きが面白くて選んだといっているらしいけれどね。 
この脚本家の書く話はいつも滅茶苦茶でかなり可笑しい。

だけど自分の穴があっても決して自分で入りたくないものだ。 大体そんな穴があったら何をおいてもつぶしに行くよね。 他人に非常に個人的な部分を覗かれるなんてとんでも無い事だ。 

それともどこかに"穴"は存在して時には誰かが乗っ取っていたりしてね。
そういえば自分が自分でないような気分の時がたまにあるとか、気がつくと15分ほどのブラックアウトがたびたびある方はお気をつけください。


映画とホウズキの関係?
。。。。。。。。全く無い。


これは何?

2005-12-12 13:55:27 | 思考錯誤

これは何?

なんだか美味しそうな。。

ナッツの沢山入ったヌガーのような。






半割りココナッツの固い実の殻に、ぴっちりつめられた鳥の餌を買ってきた。
基本的には私は野鳥に餌はやらない。 彼等は彼等自身のやり方を忘れてはいけないと思うから。。。
とは言え、人間が環境を我々の思うがままに変えてしまう今、彼等も全く無垢な自然に生きているわけではない。 森を倒され、茂みを平らに耕作されて、野鳥達も都会に散らばった緑の島々に住処を求めるようになった。 
それで地面が凍り、雪が地面を隠す時分だけは時々鳥の餌を置くことがある。

今日も昨日も地面は凍てついている。 
昨日は長い事木に残っていた葉もどっさりと落ちた。 普通は枯れ葉がパラパラ落ちて裸木になるのに、この秋の妙なリズムの気候のおかげで、さあ、葉を落とせ!と言う信号を出しそびれていたのかもしれない。
 そんなわけで枝にしがみついていた葉が、凍って冷たい枝にしがみついていた手を一斉にパッと手を放したかのようだ。 

すぐ近くに胸を赤くして寒さに羽を膨らませて、まるで薄茶色に紅色の班のある手毬のような駒鳥がえらそうに辺りを見回している。

まだ野鳥達はこのココナッツの器に盛られたご馳走に気づいていない。
でもこの餌、本当に美味しいのだろうか? 

夢か現か?

2005-12-09 10:34:59 | 夢遊
昼下がりに睡魔に襲われる話を以前書いた事があったけれど、またもや眠くて額に錘をぶる下げたみたいな感じになって来たので、作業をしながら聴いていたラジオのボリュームをあげたら、夢についての話が始まった。

Klartraum:明晰夢について。
Paul Tholey(1937-1998)という形態心理学者は明晰夢の研究で有名なようだが、その本題については私の知識が届かないので脇に放り出して、彼の夢を認識しコントロールする方法について書いておこうと思う。

簡単に言ってしまえば、
.覚醒時に何度も(一日に5回から10回)”今、私は夢を見ているかいないか。”を確認し自問自答するのを繰り返す事。 
.覚醒時に、これは今”夢の中であると想定”して周りを見回す又は自分自身を見る訓練をすること。
.身辺の確認を遂行中に意外なものが存在しなかったか?記憶に空白が無かったかを考える事。
.もしも夢の中でたびたび非現実的な状態を経験している場合、それを覚醒時に思い描く事。例えば"飛ぶ”"浮かぶ”など。
.睡眠に入る前に、認識夢を見るシュミレーションをしてみる事。
.何度も"困った状況、感情”(恥ずかしい、恐いなど)、そして決まった物(又は動物)が登場する夢を見る場合、覚醒時にもそれらを思い描く事。

これら作業を根気よく続けることで、潜在意識下でこの作業が自然に行なわれるようになり、そうした状態に至った時に夢の中でも自意識の舵が取れるようになると言うのだ。
もしくはコントロール可能な夢を見る事が出来るという事だ。
それは、夢の中での行動を自分で決定できる事。
夢の中で、それが夢である事を認識している事。
覚醒時と同じ自意識を持っている事。である。
つまり、夢の中であの角を曲がると本屋が在るのだと考えて、そこに向えば、ちゃんと本屋があって、そこにどんな本があったか覚えているという具合なのだろう。
それが旨く出来てすっかり夢を作り上げる事が出来たら凄い事になるけれど、そうは行かない。
それでも夢と現実に境目が不確かになる事は無いのだろうか? 

覚醒時に道を歩いていて、あの角から犬が出てくるぞ、と思ッた時に偶然犬がヒョコッと現れたりしたら、夢なのか現実なのか不安になりそうだ。 
覚醒している"筈”の時に、猫が歩いてきたなあ。。。なんて観察していて、猫がウィンクしたらどうしよう? 

個人差があるとはいえ、上に記した訓練法を平均4~5週間続けると認識夢を見るようになるらしい。 どなたか試して見ませんか?試して欲しい。

昔、ある夢をコントロールできた経験がある。悪夢続き改善の為に夢日記を書き始めてしばらくしたある日、これは夢だから"大丈夫なのだ”と状況に身をゆだねた途端、悪夢の進行方向が変化したのだ。 これは面白い体験だった。夢の中で夢だという事を認識した途端2階から飛び降りてみた事もある。 

私は時々夢の中でリアルに味も匂いを感じる事がある。これなどは普通の夢よりも覚醒状態に近いのだろうか? 
”昨日夢でね、こんな風なご馳走食べたんだけど、美味しかったよ”なんて話すと全く食い意地張ってると言われるのだけど、これは特技だと思っている。

悪夢に対峙し、悪夢を退治しよう。。。なんて、最後はつまらない駄洒落では話がしまらないなあ。

これを書いている私は今"夢の中”か"夢の中では無い”のか? 

どうか隣の猫が我が家のテラスに入ってきてこちらを見上げて二カッと笑いませんように。。。

夢の研究リング


追記:最初、認識夢と書きましたが、さゆりんさんのご指摘で”明晰夢”が妥当です。私は認識する行為にとらわれて、「認識夢」と名づけてしまいました。訂正しました。
   

天災的工事進行中。

2005-12-08 11:22:36 | 思考錯誤
今我が家のテラスはすっかり土まみれになって、見るも無残な状態だ。
かなり背の高かった白樺2本も切られて、その根元に生えていたすずらんや、クリスマスローズ、ルリマツリ花などが土山の下敷きになってしまった。
作業をする人達にそれを訴えても気にしない。
今年綺麗に咲いた藤の幹も傷つけられてしまった、私にとっては被害甚大だ。

昨日の朝8時前にいきなり工事をすると宣言されて15分後には白樺は倒された。
いつそんなこと決まったのか? 
早めに知らせてくれれば、植物を隔離したのに、といまさら言っても始まらない。
ましてや私は昨日出かけなければいけなかったから、作業班に文句も言えなかった。
白樺の植わった箱があった丁度下あたりの階下の天井が具合悪く修理するのだという。 だいたいあんなに大きい木は植えてはいけないのだという。まるであんたのせいで壊れたと言わんばかりだ。
私が植えたわけではないし、そんなこと言われても困る。 それなら最初から言ってくれればいいじゃないかとも思うけどね。 
むしろ我が家の方が被害をこうむって文句を言いたいわけなんだけど、そういう時に、相手はこちらの弱点を穿り出し、それを楯としてのっけからぐいぐい押してくる。 
別に私は玄関で槍を持って構えてるわけじゃあないんだから、そうそう息巻かないで欲しい。 

隣人がたびたび白樺が邪魔だと文句を言っているようだったから、隣人は密かに喜んでいる事だろう。
面と向っては”白樺は好きだからいいけど、枝を少し切って欲しいの”というだけなのだが、管理人にはかなり訴えていたようだったからなあ。
白樺は細かい葉を撒き散らすので、汚いと言う人もこの世にはいるのだ。 整理整頓、清潔に! 秩序第一! 多分我が家のテラスは彼等にとってゴミタメに見えていたかもしれない。

まあ、実際のところ確かにこのテラスには大きすぎたかもしれないけどね。 

それより、この工事がいつまで続くのか見当もつかないけれど、終わってからの片づけが大変そうだし、空にされた箱に土を入れたり、植物を植えたりするのも大変だなあ。
大体、仕事場の前をウロウロされるのは気分悪いので早く終わって欲しいものだ。

空いてしまった箱には、リンゴの木を植えてやろうと私は密かにたくらんでいるんだけど、また文句言われるだろうか?

クリスマスの話

2005-12-07 22:30:49 | 思考錯誤
クリスマスネタが続く。
辺りがピカピカしているし、辺りはザワザワ走り始めるし、カウントダウンも聞こえてくる。 家にいても普段よりも電話がなる回数も多くて、お客も多い。 のんびりしている筈の私までもがいやおう無く感染しているようだ。 
恐ろしや”師走ビールス” 

ところで、今朝歯医者の予約があったのでしぶしぶ出かけたのだ。
私は歯医者が嫌いだ。 最も歯医者が大好きな人はとても少ないと思う。 そういう人がいたら勲章をあげたい。 歯医者に行く前の日からかなり憂鬱になる。 
それは兎も角、電車が遅れ気味なのにもかかわらず時間通りに歯医者の受付に駆け込んだ。 飛び込んだ私の顔をみて
「あ~~~らら。 ○△さん、来ちゃったのねえ。」
「うん? だって今日10時に予約入れてたでしょう」
「それが今朝、至急のオペが入ってしまって先生の手が開かないことになっちゃったんです。留守電にメッセージ残したんですけど。。。再来週はどうですか?」
『えええ。。。なんてこった、困ったなあ』。。。。。と私の『目』は語った。
平謝りに"ごめんなさい”を繰り返すので、「それじゃ、散歩でもして帰りますよ」と溜息をつきながら仕方なく歯医者の玄関を出た。(あとで留守電を見ると予約時間の20分前に電話を入れている。それは遅すぎるって。) 
何もここで詳しく歯医者に肩透かし食らった事など描く事も無くて、実は歯医者の近所のクリスマス市の小屋が可愛らしかったので写真を撮ったことを書こうとしていたのに、つい歯医者への文句を垂れ流してしまった。 

これでは何の店なのか今ひとつわからないが、こんな風に手作り手書きの小屋がパラパラと並木道沿いに並んでいるのはなかなか風情があるし、おもちゃ箱の中に潜り込んだみたいだ。 

ところで『クリスマス』って言葉を聴くと連想する音楽の話。
どういうわけか"ビング・クロスビー”の”White Chrismas”や”Santa Claus Is Camin`To Town" が私の頭の中にまず湧き上がってくる。
古いなあ。 
我が家にレコードがあったのだ。クリスマスの曲だからと聞かされたのが小学校低学年頃だった。 音楽と共にジャケットに描かれていたビング・クロスビーはサンタクロースの帽子をかぶり、クリスマスらしいキッチュな背景の中央にデンと浮かんでいたのを思い出す。 
同年輩のドイツ人の友人にその話をしたら、「えええっ!」と大仰に驚かれ、その後大笑いされてしまった。 でもそうなんだから仕方ない。
彼等にとっては「日本人」と「クリスマス」と「ビング・クロスビー」がどうやっても旨く結ばれないらしかった。
その次に出てくるのがこれもどういうわけか、キャノンボール・アダレイの曲なんだけど、これは父が聞いていたからなのだ。 それがなんという曲だったか不確かだが、それは父がオープンリールに録音したものだった。 多分日本ではまだ発売されていないものだったのを、早々手に入れた仕事仲間がいてそれをを録音したのに違いない。 テープを大切そうに扱っていた事などを思い出す。

The Cannonball Adderley Quintet Plus
このアルバムはとてもよいです。 実に元気が良くて、聞いていて気持ちがよい。 『Something´ Else』などの頃よりマイルスから離れた頃のほうが私は好きだったりする。『Something´ Else』もいいけれど、マイルスが実質リーダーを取っているから、キャノンボールの感じとはちょっと違う。
 
初めて自分の小遣いで買ったレコードはチャイコフスキーで、間もなく横飛びしてビートルズやローリングストーンズを聴きはじめた。 私はまだ子供だったからレコードをどんどん買い足すお小遣いも無く、はじめって買ったビートルズのレコードを何度も何度も繰り返し聴いて、母の顰蹙を大いにかったものだ。 それが又クリスマス頃で”Help"や”The Night Before"を聴いていたおかげで10歳年下の妹はクリスマスの音楽は"ビートルズ”と刷り込まれてしまったそうだ。
その後、これと言ってクリスマスとイメージが連動する音楽がどういうわけか無い様に思う。 

今年のクリスマスには何を聴こうかな?

シャルペンティアのクリスマス・オラトリオ 美しい。
M.A.Charpentier
Un Oratorio De Noel
"Les Arts Florissants" William Christie
Harmonia mundi 

サンタクロースの話

2005-12-05 19:17:58 | 思考錯誤

私がサンタクロースに出会ったのは11月末のことだった。
サンタクロースは煙突に向う壁面で手がかりも無くにっちもさっちも行かずにただ壁にしがみ付いていた。
私は彼がしがみ付く壁の下に立って考えた。
しかし、一体何故あんな昇りにくい場所を彼は選んだのだろうか?
手がかりが無いのは一目瞭然だ。私ならあの脇の蔓薔薇を這わせた丈夫そうな格子を手がかりにするだろう。 彼はよほど指先に自信があるのだ。
しかし、一体何故まだ時期早だというのに、こんなところで立ち往生しているのだろうか?
壁登りの練習中なのだろうか? 空飛ぶトナカイが行方不明になった時などには、便利な技でもある。
だけど、一体これは本物のサンタクロースなのだろうか?
赤白のコスチュームに先が折れた赤い三角帽子、そして巻き毛のたっぷりとした白い髭をたくわえたところは、どう見てもサンタクロースの人相書きにそっくりだ。
そういえば、サンタクロースさん。
その三角帽子はもともと中近東の魔術師の帽子からインスピレーションを得たデザインだそうですね? 僧侶の帽子は動き回るのに邪魔ですからねえ。
頭の後ろに折れた帽子の先がブルッと揺れた。
そういえば、サンタクロースさん。
もともとは僧侶のマントを着ていたじゃないですか? 
やはり壁をよじ登ったり煙突に潜ったりするのに邪魔だから、コカコーラ社のデザインのそのコスチュームが具合良いのですか? 北方の森の精のコスチュームも参考にされたとききましたが?
風も無いのに上着の裾がハタリと揺れた。
そういえば、サンタクロースさん。
その名前はオランダの”Sintarklaas”から来た名前ですか?アメリカにわたって英語読みサンタクロースとなったのが世間に普及したわけですね? アメリカ経由だと流行るのは何ででしょう?ねえ。
担いだ袋の中で何かがごそっと言った。
そういえば、サンタクロースさん。
貴方のお供のルプレヒトは一体どこに居るんです?薄給にうんざりして逃げちまったんですか? 世知辛い世の中になりましたからね。あいつは何でも悪魔だったそうじゃないですか。どうやって手なづけたんですか?まあ、私みたいに暇にのんびり過ごしている人間も随分減りましたからね。なんなら、お手伝いしましょうか?まさかその袋の中にいるんじゃないでしょうね? 袋の中は子供達にあげる贈り物が入っているんでしょう? 少し小さすぎやしませんか? 最近の子供はお菓子なんかじゃ許してくれませんからねえ。
心なしか彼の体がズリッと動いた。
「お前の方がルプレヒトの名に相応しいな」と言う声が耳元で聞こえたように思ったのは気のせいだったのか?なんだか急にゾクッと寒くなってたので、いまだ壁にしがみついたまま一向に動かないサンタクロースに手を振ってから小走りに家に帰った。
               

                  
数年前からこのタイプのサンタクロースの飾り物があちこちの家の壁に張り付くようになった。  時には一つの通りに3つも4つも掛かっていたりする。 いかにも人形と言うサイズから実物大まで様々で、出来具合も様々だ。 
でも実物大はかなり怪しい感じでまずい。 ひょっとして泥棒なんじゃ無いかと目をこらしてしまう。 中には取り付け方が悪くて首吊りしている奴も出て来るしあまり見てくれのいいものではない。 出たての頃は面白かったけれど、いい加減もう飽きてしまった。もっと夢のある飾り物作って飾って欲しいと思う。

先日降った雪はもうすっかり消えてしまった。ところで今年のクリスマスに雪は降るだろうか?
ホワイトクリスマスは今までに2度くらい経験した事があるくらいだ。 それ以外はグリーンクリスマスと言うよりグレークリスマスと言った方がピッタリだった。

雪といえば一昨日搬入に行った画廊近辺では雪が地面をすっかり覆っていて、まだまだ消えそうには無い様子だった。 温度もここよりも6度ほど低い。 
                     
                     先週70cmほど積もったそうだ。
                     
                     この屋敷の中に画廊がある。 



昨日は第2アドヴェント。 蝋燭の二本目が灯った。


聖ニコラウス

2005-12-04 02:32:01 | 思考錯誤
私がサンタクロースに会ったのは多分小学2年生の冬だった。
その年のクリスマスイブ,町にあったカトリック教会を訪ねたのだ。 
ミサが終ると、舞台の上にニコニコ顔の大きな袋を担いだサンタクロースが子供達を待ち受け、舞台に上がる脇の階段では悪魔が子供達を脅かそうと手ぐすねひいている。
黒と赤に色塗られた悪魔が目玉だけ光らせて子供達の周りを飛び回っている脇を子供達がすり抜け、サンタクロースの前に到着すると小さなスケッチブックと天使の蝋燭立てという贈り物を貰う事が出来るのだ。 
私はクリスチャンではないので席に付いたままじっとその様子を眺めていた。 
すると神父さんがやってきて「さあ、貴方も前に行きなさい。」と私の手を引いて立ち上がらせ、背中をやわらかく押した。 抵抗を感じながら、戸惑いながらも私はそれでも言われたとおり列の最後に繋がり、悪魔を横目に階段を昇り、舞台中央のサンタクロースに緊張しながら近づいていった。 
気がつくと、何もわからぬままに舞台の上に一人残された私に、サンタクロースは「貴方は今年良い子でしたか?」と聞いている声が聞こえた。 
私は良い子であったかって? どう返事をしたら良いのだろうか? 「はい」と即答できないだけの原因の記憶があったから、一体どうやって答えたらいいのか?
今の私なら悩みもしないでさっさと返事をしてしまうけど、そんな時代もあったのだ。
私が返事を出来ずにじっと立ちすくんだまま、困った顔をして悩むのを見て、サンタクロースは「良い子だったね。これをあげよう」といってスケッチブックと天使の蝋燭立てを私の手に乗せた。 
タイムオーバーって言う事だったのかもしれない。
混乱したままに私は舞台を降り席に戻ると、何故はっきり返事をしなかったのか?聞かれたらハキハキと返事をしなければいけないと酷くしかられ、元気よく「良い子でした」と嘘をついたら良かったわけなのかと、ますます混乱のクリスマスイブは深けていった。
その蝋燭立てに一度だけ赤い蝋燭を灯した記憶があるが、それ以降埃を被って消えてしまったらしい。 

12月6日は聖ニコラウス(サンタ クロース)の日である。
聖ニコラウスは悪い子にはお仕置きの小枝を、良い子には美味しいお菓子を持って現れる。 子供が良い子だったか悪い子だったかは”金の本”に書かれていて、聖ニコラウスが読み上げるのだ。 

聖ニコラウスは現在のトルコ(Patara、アンタルヤ近辺)で280年又は286年に生まれ、裕福だった両親がペストで亡くなり遺産を受け継いだ彼は貧しい人々にそれを分け与えた。
その頃Myraの僧正が亡くなった折、時期のビショップを決めることでひと悶着があった。
『ミサの時間に教会のドアに触れた一人目で、ニコラウスと言う名を持つものをビショップにせよ』と言う"声"を聞いた者があり、そしてその予言は成就されたのである。 
聖ニコラウスについてはMyraの僧正になったニコラウスなのかPinaraの僧正(シオンのニコラウス)か、不明な部分があるが、それぞれの履歴が混ざって築かれた伝説なのかもしれない。 加えて土着の自然信仰から生まれた神ともない交ぜになっているのだとも言われる。 

聖ニコラウスは情熱的な男であり、外交的手腕を持っていたようだ。
海岸沿線の人々は異教のダイアナ、アルテミスを信奉していたが、彼は異教が求める生贄を廃止しそれらの寺院を破壊した。異教を認めない情熱の是非をここで語るつもりは無い。

また、よく知られる伝説にこんなものもある。
隣家に住む或貧しい家族に3人の娘があった。 その頃娘を嫁に出すには充分な持参金を用意しなければならない風習であったので三人の娘達が嫁ぐ為には持参金の為に娼婦として働くしかない。それに心痛めているのを知って、ニコラウスはひそかに窓や暖炉の煙突から布に包んだ金を投げ入れ彼女等を救った。

貧しきものを助け、弱きものを助ける聖人。
1555年以降ニコラウスは子供達に贈り物をもたらすという話が導入され、今に至っている。 聖ニコラウス前夜、彼はルプレヒトという僕(国により名前が変わる。手懐けられた悪魔らしい。)を連れ各家の子供部屋のドアに取り付けられた長靴や靴下にお菓子を詰めてゆく事になっている。 
日本でもクリスマス頃によくお菓子屋にお菓子の詰まった長靴や靴下が並んだものだけど、あの原型だ。
面白いのは、白髭で赤い服のサンタクロースイメージは1900年頃に『コカコーラ』社がニコラウスの絵をクリスマスキャンペーン広告に使い、その際コカコーラ商標の配色”赤白”を服にあしらったというのが始まりと言うことだ。
コカコーラ社の力は偉大だね。
聖ニコラウスを象徴するのは3つの金の珠、3人の天使、3つのリンゴ、3つの星、3個の石、塩漬け樽と3人の若者、船、舵、錨である。
子供、娘、老人や旅人、巡礼者、消防署、薬局などなど様々な職種の守護聖人であるが、ここでは数え上げていたら切りが無いので割愛する。
しかし驚いたのは泥棒の守護聖人でもある事。 兎に角誰でもが頼れる心広い聖人というわけなのだ。
(最も異教には厳しかった様だけれども)
幸せな結婚、紛失物の発見にもご利益ありで、また水難、盗難防止にも活躍するのだが、盗難防止と、泥棒の守護はどうやって折り合いが付くのだろう?

Nicolausと言う名前はNicos=勝利、Laos=国民から来ている。



ちょっと感じの良いおねえさんが、ちょっとセクシーなコスチュームを身に付けて「味見してみませんか?」と欠片の入った器や、試食の入った籠をいきおいよく目の前に突き出すものだから、つい手が出てしまった。 
食べてみると案外それが美味しい。
その気になって見回していると今年は、色々なニコラウスのチョコレートが出ているので思わず見ていたら楽しくなって、気がついたらいくつも手に抱えていたわけです。 今年のニコラウスコレクション第一弾公開。

さて「今年は良い子でいましたか?」