1
今年はなんだかなりそこねた冬が徘徊している。
そんなわけでいまだにLobularia maritimaは咲き続け、金盞花は一つ二つと咲き止まず、オオアラセイトウもポツリ咲いてしまった。
これでいきなり気温が下がったら花の氷漬けが出来てしまう。
氷の中に黄色や白や赤い花が閉じ込められている様子、J・G・バラードの「結晶世界」に描かれている景色を思い浮かべて花には気の毒だけれど密かにそんな日を待っている。
2
朝、夢遊病者の足取りでパン屋に出かけた。
あれやこれやと幾種類のパンの名前を告げ、言われた通りに代金を払ったのち店を離れながら、何か変だな。。と思う。
でも、どう変なのかを追及する気が無い。
家に帰ってから。おっとり思い出すと私は少し多めに代金を払ってきたらしい。
こういうときは馬鹿な自分が酷く悔しいが、もう一度戻って訂正するだけの元気が無い。面倒臭さが悔しさに勝った。
私はあまり賢い頭を持っていないので、その場で幾つかの値段をちゃきちゃきと計算し、レジの打ち出す数字をチェックするなんて事が出来ないと端からあきらめているのだ。
まあいいか。。。そういえば昨日道で1ユーロ拾ったし。。。などと計算している私は酷くけち臭い。
3
道路をなめるように眺めながら歩いていた。
別にお金が落ちているかも知れないとかそんな理由があってのことではないし、心労に押しつぶされてうなだれていたわけでもない。
駐車場の片隅が赤く塗られていて、雨でぬれた表面に白い二連なりの家が貼り付いていた。
これは大晦日の花火の残骸で、あれからずっと貼り付いたままだ。
赤い背景に白い家はなかなか美しい。白い家が炎に包まれているようにも見える。
夕焼けに栄える二連の雪山という手もある。
カメラを向けて何枚か写真を撮っていると、脇を通りすぎる人々が不思議そうな顔で私と私の視線の先を交互に見てゆく。
4
棚の中から前回の帰国時に買った漉し餡の素が現れた。古くなってうまみの出るものではないから、いい加減に作って食べねばいけないとおもった。
処方箋どおり粉と砂糖と水をいれしゃもじで鍋をかき回し続けた。
今回は鍋から片時も離れない。
なぜかというとここのところ、火にかけた鍋(といっても電気調理器だから火は無い)の事を、うっかり忘れて後始末が大変という事態を2度ほど続けてしまったからだ。
煮込む料理は時間がかかる。それを圧力鍋で強引に早く決着をつけてしまおうとするわけなのだが、その短縮された時間でさえじっとできずにちょっと目を離す。
目を離すとそこに思わぬ"用事"が現われたり、気を惹くものが面前にあらわれる。
ついそういった誘惑に気を取られて、しゅうしゅう言っている鍋の存在を忘れてしまう。そしてそのうちにやっと私の鼻が煮物を思い出すのだ。
一度は豆の煮物を黒焦げにし、その後間もなく牛筋を煮込もうとして失敗した。これらの焦げたときの匂いといったらない。
しばらくしょげ返って圧力鍋には手を触れたくなかったほどだ。圧力鍋でなければ失敗は免れたかというと、それはそうとも限らない。
というわけで、片手はしゃもじ、片手には本を持ちながら(本当はこの姿勢がいけない)今回は鍋から片時も離れず何事もなく仕上がった。
漉し餡は最初の頃はまるで黒絹のように艶やかでなんとも美しかった。だんだん水分が蒸発し始めてしゃもじの軌跡がしっかり残り始めると今度は餡に指を突っ込んでなめたくなる。しかし、そんな行儀の悪いことは私はしない。すっかり出来上がってから小分けにして冷凍し、茶碗一杯分を残して無事だった鍋を洗う。
茶碗一杯の餡子は一体何に変身するかと思い巡らしながら、気が付いたら片手に持っていたスプーンで私は餡子を舐めていた。
まあ、兎に角何事もそうだが、作業は上の空ではいけない。そしてタイマーを必ず使用のこと。これは教訓である。
今年はなんだかなりそこねた冬が徘徊している。
そんなわけでいまだにLobularia maritimaは咲き続け、金盞花は一つ二つと咲き止まず、オオアラセイトウもポツリ咲いてしまった。
これでいきなり気温が下がったら花の氷漬けが出来てしまう。
氷の中に黄色や白や赤い花が閉じ込められている様子、J・G・バラードの「結晶世界」に描かれている景色を思い浮かべて花には気の毒だけれど密かにそんな日を待っている。
2
朝、夢遊病者の足取りでパン屋に出かけた。
あれやこれやと幾種類のパンの名前を告げ、言われた通りに代金を払ったのち店を離れながら、何か変だな。。と思う。
でも、どう変なのかを追及する気が無い。
家に帰ってから。おっとり思い出すと私は少し多めに代金を払ってきたらしい。
こういうときは馬鹿な自分が酷く悔しいが、もう一度戻って訂正するだけの元気が無い。面倒臭さが悔しさに勝った。
私はあまり賢い頭を持っていないので、その場で幾つかの値段をちゃきちゃきと計算し、レジの打ち出す数字をチェックするなんて事が出来ないと端からあきらめているのだ。
まあいいか。。。そういえば昨日道で1ユーロ拾ったし。。。などと計算している私は酷くけち臭い。
3
道路をなめるように眺めながら歩いていた。
別にお金が落ちているかも知れないとかそんな理由があってのことではないし、心労に押しつぶされてうなだれていたわけでもない。
駐車場の片隅が赤く塗られていて、雨でぬれた表面に白い二連なりの家が貼り付いていた。
これは大晦日の花火の残骸で、あれからずっと貼り付いたままだ。
赤い背景に白い家はなかなか美しい。白い家が炎に包まれているようにも見える。
夕焼けに栄える二連の雪山という手もある。
カメラを向けて何枚か写真を撮っていると、脇を通りすぎる人々が不思議そうな顔で私と私の視線の先を交互に見てゆく。
4
棚の中から前回の帰国時に買った漉し餡の素が現れた。古くなってうまみの出るものではないから、いい加減に作って食べねばいけないとおもった。
処方箋どおり粉と砂糖と水をいれしゃもじで鍋をかき回し続けた。
今回は鍋から片時も離れない。
なぜかというとここのところ、火にかけた鍋(といっても電気調理器だから火は無い)の事を、うっかり忘れて後始末が大変という事態を2度ほど続けてしまったからだ。
煮込む料理は時間がかかる。それを圧力鍋で強引に早く決着をつけてしまおうとするわけなのだが、その短縮された時間でさえじっとできずにちょっと目を離す。
目を離すとそこに思わぬ"用事"が現われたり、気を惹くものが面前にあらわれる。
ついそういった誘惑に気を取られて、しゅうしゅう言っている鍋の存在を忘れてしまう。そしてそのうちにやっと私の鼻が煮物を思い出すのだ。
一度は豆の煮物を黒焦げにし、その後間もなく牛筋を煮込もうとして失敗した。これらの焦げたときの匂いといったらない。
しばらくしょげ返って圧力鍋には手を触れたくなかったほどだ。圧力鍋でなければ失敗は免れたかというと、それはそうとも限らない。
というわけで、片手はしゃもじ、片手には本を持ちながら(本当はこの姿勢がいけない)今回は鍋から片時も離れず何事もなく仕上がった。
漉し餡は最初の頃はまるで黒絹のように艶やかでなんとも美しかった。だんだん水分が蒸発し始めてしゃもじの軌跡がしっかり残り始めると今度は餡に指を突っ込んでなめたくなる。しかし、そんな行儀の悪いことは私はしない。すっかり出来上がってから小分けにして冷凍し、茶碗一杯分を残して無事だった鍋を洗う。
茶碗一杯の餡子は一体何に変身するかと思い巡らしながら、気が付いたら片手に持っていたスプーンで私は餡子を舐めていた。
まあ、兎に角何事もそうだが、作業は上の空ではいけない。そしてタイマーを必ず使用のこと。これは教訓である。