久しぶりの「出稼ぎ」が終了した。
通常の展覧会とはまた違った楽しさが「出稼ぎ」にはある。この場合私の言う「出稼ぎ」は「展示即売会」の事。
通常の展覧会の場合オープニングが終われば後は人任せにしてしまうので、始まりの2,3時間だけ口を動かしていれば良いのだけれど、短期の展示即売会ではそうはいかない。三日間、作品の説明を繰り返し繰り返しし続けるのはなかなか疲れる。ロボットになったような気分になってくる。できれば説明案内を録音して四六時中流しておきたい。しかしその反面、ブログやウェブサイトを観て来てくださった方もあったり、短い時間ながらさまざまな会話と出会いが楽しい。
装丁や自作の漉いた紙に重きを置く作家、既存の詩や短編に挿絵を合わせて印刷製本した限定本、スクラップブック的コラージュ、本を使ったオブジェ。
新しく作られた本、既存の本を使った作品。。。。
両手の上に乗る一つの世界だ。
このジャンルだけに力を注いでいる作家も、私のように片足だけ突っ込んでいる者もいる。
まだまだ本を使った作品の展開、可能性があるので楽しみでもあるし、自分自身実験してみたい事がある。
会期中、土曜の昼頃の事。
ジーンズに色よいセーターをあわせ、頭にアマガエル色のターバン風帽子を冠った中年の女性がやってきた。色々話すうちに"日常、出来事”を保管する、記録する事、その方法についての話になった。
すると「そういえば、、、」と彼女は肘で私の腕をつつきながら話し始めた。
「私の家の台所にはスパゲッティが一本額に入って飾ってあるのよ」
そんな風に訳ありに話し始められたら問うのが礼儀だとおもうので
へえ、それは何でまた?と聞いてみた。
「それがね、もう10年以上前の話なんだけど、私は昼にスパゲッティを茹でていたのよ。そのとき息子が茹で具合を見るのには、スパゲッティを壁に投げつけてくっついて落ちなければ丁度良い加減なんだって教わったから実験したいといって聞かなくてね、一本とって投げたらトンでもないところに飛んでいって窓の外にたっている柱にぺッタと貼りついたのよ」
「翌日、何気なく見るとまだちゃんと貼り付いているし、その翌日も翌々日も張り付いている。少しはがれてきた部分もあったけれど、しっかり柱の表面に接着していたのね。私と息子は写真を撮ったり、雨の日も風の日も雪の日も毎日のように"それ”を観察したのよ。2年くらい”それ”はそこにしっかりくっついていたので、まるで永遠に存在するかと思われたけれど、ある朝見ると無いの。思わず”それ”の行方を捜して見えるはずも無い3階下の道路をじっと眺めたけれどもちろん見えないし、あっても粉々で跡形もなくなっているだろうと何だかものすごくがっかりしたのよ。悲しくさえあったわ」
ひょっとして"それ”はそこに貼り付いて沢山のことを見聞したのに違いない。暑さも寒さも、または四月のそよ風や漂う菩提樹の香、子供達の笑い声やうるさい車のクラクション、雪一片の冷たい心地よさと、凍ってしまう事の無慈悲などを体験して自我って奴を目覚めさせていよいよ旅に出たのかもしれない。。。と、私が言いかけると、
「ところがね、ふとベランダに立っていた私の足元に”それ”がいたのよ。」
「多分、風に負けてとうとう剥がれたのだけれど、風が私のベランダに”それ”を届けてくれたのよっ!」と彼女はまた肘で私をつついた。
「それ以来私は”それ”を箱に入れて台所に飾っているわけなのよ」
まあ、それほどドラマティックな話でもない、教訓もない、小さなエピソードだけれど、いわばスパゲッティの冒険物語。
「たかがヌードル、されどヌードル。。。ヌードルもただヌードルであり続けるわけじゃないって事ですね」と私が言うと、わっはっはと高笑いをして「ヌードルもただヌードルであり続けるわけじゃないって。。。それ、いいわね」と、彼女は帰っていった。
そのあとしばらくの間、ただの物が物でなくなる時。。。に付いて思い巡らした。
「柱に乗って旅するスパゲッティ」
何を見たんだろうか?