できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

いわゆる「佐教組事件」のこと。

2011-11-01 07:54:09 | いま・むかし

もう一つの日記帳ブログには書きましたが、日曜日から2泊3日の予定で佐賀市まで来ています。今日の夕方には自宅に戻る予定です。

詳しいことはこのブログ・日記帳ブログには書きませんが、今回は1957年2月に起きた佐賀県の教職員組合(佐教組)の「3・3・4闘争」に関する資料収集や、当時の教員へのインタビューなど、調査のために仲間の研究者とともに来ています。

ちなみにこの「3・3・4」というのは、「3割・3割・4割」のこと。佐教組にかかわる現場教員たちが、学校の教育活動に支障がでないように配慮しつつ、交代で休暇をとって、佐賀県庁や県教委に対して「措置要求」をしようというのが、この闘争の趣旨です。以下、私が今、知っていることの範囲で、説明をしておきます。

この当時、佐賀県は財政再建のために、数年間にわたって教員の昇給停止等を行うとともに、高齢の教員や共稼ぎ家庭の女性教員などに対して退職勧奨(教員整理、要はリストラ)を行っていました。そのような状況下で、さらに259人の教員の整理を行われる見通しがわかったことに対して、佐教組としての抗議の形が、この「3・3・4闘争」でした。

なにしろ、1957年度には約7千人の子どもが増える見通しの下での教員整理案です。また、教組としての対県教委交渉、抗議集会などの開催、保護者(PTA)や地域住民への説明等、あらゆる方法をつくして整理案の見直しなどを求めても、このような状況が変わらない。そのような状況下でのやむをえない抗議活動として、このような休暇闘争が組まれたのでした。

ところが、この休暇闘争の指導者層に対して、県教委側は1957年の4月、新しい年度に入ってから、一斉に処分を実施しました。また、4月末には警察が強制捜査を実施し、地方公務員法違反(ストのあおり行為)を理由として、佐教組幹部の逮捕も行われました。そして、その後長年にわたって、刑事訴訟及び行政訴訟を通じて、この休暇闘争の在り方や教員への処分をめぐって、行政側と教組側とが争うことになったわけです。そして、この警察の介入などの背景には、当時の政権与党・自民党側の意図があったのではないかと言われています。

石川達三の小説『人間の壁(上・中・下)』は、今は岩波現代文庫で読むことができますが、この小説は、この佐教組事件前後の状況を舞台にして、主人公の女性小学校教員が教育の仕事に目覚め、教組の運動にも積極的に取り組むようになっていく、その過程を描いた長編小説です。また、石川達三はこの佐教組事件の関係者にかなり精力的に取材を行ったようで、事件にまつわるエピソードのいくつかは、小説のなかにフィクションをまじえながら反映されているようです。

この1950年代半ばから60年代に入るまでの間、たとえば公選制教育委員会の廃止、任命制教育委員会の発足、教員の勤務評定の実施、佐教組事件などが相次いだこの時期は、日本の教育の転換点として、いま、あらためて注目されてしかるべき時期ではないかと思います。また、この時期に何が起きたのかを知ることで、いま、「教育基本条例案」や維新の会の動きなど、大阪で起きている出来事を見る目も変わってくるのではないかと思います。

なお、小説『人間の壁』については、下記のページでも詳しい紹介があります。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~BIJIN-8/fsyohyo/kabe_nin.html

また、佐教組事件については、ウィキペディアの下記のページにも、詳しい説明があります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%95%99%E7%B5%84%E4%BA%8B%E4%BB%B6

両方とも、あわせて参考にしていただければ幸いです。


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