昨日こちらのブログで書くことができなかったので、あらためて今日、書いておきます。
前にもお伝えしたとおり、11月19日(月)、東京で開催されたNPO法人ジェントルハートプロジェクト主催の「親の知る権利を求めるシンポジウム」で私、基調講演をしてきました。
http://www.gentle-h.net/_src/sc358/6th20sympo.pdf
ちなみに、新聞記事も次のように、この日のシンポジウムの様子が伝えられています。ですから、当日の話はこちらを参考にしていただければ幸いです。
http://mainichi.jp/area/gunma/news/20111120ddlk10040050000c.html (毎日新聞群馬版、2011年11月20日:いじめ自殺:子供失った親がシンポ 桐生・いじめ自殺の父参加--東京 /群馬)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20111120/CK2011112002000074.html (東京新聞群馬版、2011年11月20日:事実究明の必要性訴え 自殺や事故で子ども失った遺族のシンポ)
さて、今回の基調講演では、兵庫県川西市の子どもの人権オンブズパーソンで調査相談専門員をしている頃に、公立中学校の部活動中の熱中症死亡事故の原因究明・再発防止策の確立等にかかわる仕事をしたことから、全国学校事故・事件を語る会の取り組みに参加して、今に至る経過を中心にお話しました。
また、その経過のなかで多くの学校事故・事件の被害者遺族の方と出会うなかで、「我が子がなぜ死に至ったのか」という事実経過を知りたいという、ご遺族の方の切実な願いを聴く機会に何度も遭遇しました。だいたい、どのようなケースも共通して、程度の差こそあれ、このような形で被害者遺族の方の状況が推移しています。
それこそ、朝、元気よく「行ってきます」と手を振って登校した、その我が子が、ある日突然学校からの連絡で病院に駆け付けたときには、すでに亡くなっている状態になっていた。その間の経過を知ることなしには、親として、この事実をどう受け止めていいのかわからない。しかも、あわただしくお通夜・葬儀など一連の弔いごとを行っているうちに、学校は授業を再開し、平常の様子をとりもどしていくなかで、自分たちへの説明や連絡がどんどん脇においやられていく。そして、遺族側から「事実を知りたい」と学校に働きかければ、当初はいろんなことを語ってくれた関係者も口を閉ざすようになってきます。
そこで遺族側として、やむなく情報公開請求をかければ、事故に関する文書は出せないと言われたり、一番知りたい部分が真っ黒にぬられた文書が出てきたり、あるいは、書いてあることがどうも当初聞かされていた話と食い違うとか、ほかの子どもや教員などから聞いている話とちがうといようなケースも出てくる。それを「おかしい」といって抗議をしても、なかなか改善されない。それどころか、ますます文書が出てこなかったり、話ができなくなってくる。一方、遺族側から周囲の子どもなどに話を聴こうと動き始めても、なかなか話が聴けなくなってくる。それどころか、事実経過を知りたいと願っての遺族側の動きに対して、さまざまな誹謗中傷が地域社会の間でかけめぐるようになる。本来であればもっといろんないたわりやねぎらいがあってしかるべき学校事故・事件の被害者遺族が、我が子を失った悲しみに加えて、二重三重の被害を受けることになるわけです。
そこで、遺族側としてはやむなく、たとえば民事訴訟、あるいは指導していた教員の過失認定などをもとめて刑事訴訟の提起へとふみきり、法廷で学校側からの事実に関する説明を聴きたいということを考えるわけです。ですが、法廷でのやりとりのプロセスでは、まるで亡くなった我が子に問題があったかのような説明が学校側から伝えられたり、あるいは、保護者の子育てに著しく問題があったかのような主張が学校側からなされたりする。そこでさらに、被害者遺族は傷ついて、苦しんでいくわけですね。でも、それでも法廷でのやりとりのなかでしか、事実経過について説明される場がないならば、そこに臨まざるをえない。また、裁判に訴えてでることにはお金がかかるわけですから、ある程度、経済的な事情が許さないとできない。そうなると、ほんとうは事実経過を詳しく知りたくても、やむなく「泣き寝入り」をする被害者遺族も出てくるのではないでしょうか。
私としては、こうした学校事故・事件の被害者遺族の置かれている状況は、教育学や法学の関係者だけでなく、たとえば心理学や医学、社会福祉学、行政学、社会学、スポーツ学、そして宗教や哲学・思想系の方など(弔いに関することも入りますので)、あるいは理工系の人まで(施設・設備の問題に絡む事故防止などには、理工系の観点も必要)、さまざまな学問領域の関係者が、領域横断的にネットワークをつくって、当事者たる遺族のみなさんとともに、きちんと議論をつみかさね、検討を行っていくべき課題だと考えています。少なくとも、こうした学校事故・事件の被害者遺族の方々が行っているさまざまな活動の場に、こうしたさまざまな学問領域の関係者が常時、出入りして、当事者の声に耳を傾ける必要があるのではないかと思っています。
各種の調査研究協力者会議や審議会などに出入りする人々を見れば、学校や地方教育行政、文部科学省などのサポーター、アドバイザーのように動く研究者は、それ相応にいることがわかります。でも、それと同じくらい、学校事故・事件の問題に関しては、被害者遺族の側に寄り添っていくような研究者が今、求められているのではないでしょうか。そのことをこのごろ、私はよく感じています。
なお、今回のシンポジウムに出て、関東で全外教(全国在日外国人教育研究協議会)の活動に取り組んでいる教職員のみなさんが、学校での「いじめ」自殺の問題について、積極的に被害者遺族の方への支援に取り組んでいることを知りました。学校での「いじめ」の背景に、たとえば在日外国人の方への偏見・差別の問題が絡んでいるというケースが、実際にいくつか生じてきているからとのことです。このような教職員のみなさんが、今後、各地でどんどん増えていくことを願っています。
と同時に、子どもの人権や人権教育に関心を寄せる研究者や他の教職員の研究団体のみなさん、子どもの人権関連の市民団体のみなさんは、この学校事故・事件の被害者遺族の問題について、どのように考えているのでしょうか。どのように動こうとしているのでしょうか。特に「いじめ」や「差別」のない学校づくりということを考えているのであれば、まさに「いじめ」で我が子を亡くした遺族側からの訴えに対して、なんらかの形で全人教や大人教として、あるいはひとりひとりの研究者としてそれを受け止め、動いていく必要があると思うのですが。